卑弥呼の都はいずこに・・・ 探訪の旅を続けて40年。長旅となりしも、なお憧れの地は見えて来ず・・・

現時点では、卑弥呼の都を、佐賀県吉野ヶ里遺跡を差し置いて、他に所に求めるのは、かなり無理があると思う。

私の案(『卑弥呼物語』近日発売予定)では、卑弥呼は、幼少期から二十歳代までを、吉野ヶ里で暮らしたとする。

吉野ヶ里遺跡の学芸員さんは、「未だ発見されていない遺跡が数多あるから、吉野ヶ里だと言い切れない」と仰った。

そうだと思う・・・ しかし、その態度では、いつまで経っても古代史の事実は浮かび上がってこない。

「現時点では・・・」としながらも、私は、吉野ヶ里遺跡の復元は、卑弥呼の時代を相当意識したものだと感じる。

弥生時代の遺跡・・・登呂遺跡から西のさまざまな遺跡を巡ってきた・・・ ひとつの答えを示すべき時だと、私は思った。

卑弥呼が幼少期から二十歳代までを過ごした吉野ヶ里・・・ という案を・・・

 

                           何回此処を訪れたことやら・・・

 

自分の目で確かめ、事実を探ろうとすること。

真実に近づくには、『魏志倭人伝』の記述と遺跡の発掘状況とのすりあわせが大切である。

背振山系の南側に位置する吉野ヶ里。遺跡の向こうに見える険しい山々がそれである。天然の擁壁。

大乱の世を乗り越えるための人々の智恵・・・それが、吉野ヶ里には明らかにあった。

「倭国は、もともと、男子を王とした。その間、7,80年、倭国大いに乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と成す。名付けて、卑弥呼という・・・」

この記述は、非常に重要である。男王が支配していた倭国は、じつに80年もいくさ状態にあったのである。

「宮室・楼観・城柵厳かに設け・・・」

楼観や城柵をはっきりとした形で備えていたところは、吉野ヶ里。現時点では、吉野ヶ里遺跡のみ。

大規模で見事な環濠。そこから隙間なく配置された城柵。これでは、敵も攻略は容易ではなかったであろう・・・

楯や弓矢などの武器はもちろん、九州北部の遺跡からは、鉄鏃や鉄剣も出土している。

まさに、鉄の武器を用いてのいくさがこの時代に行われていたのであった。

あまり鉄製の武器や農具が出ていない畿内は、九州までを支配するような軍事力があったとは到底考えられないのである。

卑弥呼は、このように吉野ヶ里の祈祷師養成の道場で修業をしていたと、私は考える。じつは、伊都国の王家の出身であった卑弥呼は、若かりし頃、躾と学問と武術、そして、優れた祈祷師(巫女)となるために、此処にて修業をしていたのだった。

そして、卑弥呼は、一人前の祈祷師となり、各地を旅して廻った。その過程で出会った人々とのふれあい・・・

これこそが、女王卑弥呼の原動力であったと、私は考えた。

伊都の男王が没落し、出雲や吉備の勢力が力を持ち始めた・・・ その時、奴国や伊都国などの民は、大いに混乱したと思う。

だからこそ、卑弥呼に王となってもらいたかったのだ。すなわち、「共立」の原動力は、圧倒的な数の「民」だったのである。

人々は、いくさ世に疲れ果て、男王を見限り、思いやりがあり平和を希求する卑弥呼に、大いに期待した。そして、事件は起きるのである・・・

倭国大乱を鎮め、ついに30国をまとめあげた統一戦が行われた・・・ このような歴史の事実を描けないものか・・・

吉野ヶ里遺跡にあるいのししのモニュメント。女王となった卑弥呼は、稲作を奨励したが、山の民や海の民の意見をも取り入れて、彼らの伝統や風俗を守り、稲作民との融合を図ったのであった・・・

 

(次回は、卑弥呼の産まれた地について、説明したいと存じます。宜しく御願いします)