一時は華々しかった邪馬台国論争も、今年(2020年)は何もないといってよい。

これは、良い傾向かも。

そもそも論争とは名ばかりのつまらぬ大人の自己主張。お国自慢に根拠を示さない勝手な言い分。

それをあおってきたマスコミの責任も大きい。

長年この問題に取り組んできた人は、卑弥呼の居た都は、現在の福岡県に在ったと思っている。

正確に言えば、近畿地方よりも九州北部地方の方が、有力だということ。

それは、弥生時代の遺跡から出土した遺物の種類や数をみれば、北部九州が他を圧倒している事実があるから。

『魏志倭人伝』の記述に合致する点が多く見られるから。

稲作の隆盛、楼観・城柵を持つ環濠集落などの遺構、民の共同墓地、鏡・矛・勾玉のセットでの出土、武器によってつけられた傷のある人骨の出土、さまざまな鉄器の出土、半島や大陸との往来の有利さなど、この時代の北部九州は、大和など他の地域を圧倒しています。

私は、桜井市の纏向遺跡にも数回足を運びましたが、残念ながら、卑弥呼の都だとは結論づけられませんでした。むしろ、記紀の示すとおり、纏向は崇神王朝の都(都市国家)だとする方に魅力を感じます。纏向遺跡は、乱をふせぐ環濠の集落はなく、七万戸の民が住んでいた所だとは、私には感じられませんでした。
なのに、学者さんは、奈良県に在ったとしなければならないらしい。 命がけで・・・

安本美典氏が、「邪馬台国は99パー福岡に在った」と声高に言っても、

聞き入れない学者さんの何と多いことか・・・

『卑弥呼は居なかった』 『卑弥呼は僻地にいた土人である』 と言い張られる学者・識者も・・・ ひどい。

古事記・日本書紀の記述を素直に読めば、天照大神こそ、卑弥呼の神格化された姿だととらえられる。

そのそも、中国側(三国志・魏志倭人伝)が、倭国の女王と書いているのを、卑下して土人とするなど、失礼な話である。

 

 私は、卑弥呼が女王になれた理由、のちに天照大御神として崇められた理由を、次の六点だと考えています。
○伊耶那岐命、伊邪那美命の子で、伊都の王女として生まれ育ったこと。元々高い位の生まれであったこと。
○母伊邪那美命の始めた銅鏡を使った祈祷を完成させ、その日神信仰は、多くの民衆を惹き付けたこと。
○稲作を広め、水田を各地に根付かせる施策をとったこと。米を主食とすることを列島各地に広めたこと。
○ムラに出向いて、民の声を聞き、暮らしを守り高めようとしたこと。それ故、民衆から圧倒的な人気があったこと。
○なによりも平和を愛する人だったこと。数十年にわたる大乱の世を鎮めた日巫女としての力は、偉大であった。いがみ合った三十国の豪族たちが、女王でなければまとめきれないと認めたことは、倭国という統一国家を生んだという意味で、非常に大きい。
○縄文と弥生の文化と社会のせめぎ合いを、卑弥呼は、女性を尊重する縄文の立場から融合を図ったこと。

 

偉大なる卑弥呼の業績に、令和の今こそ、光を当てるべきではないでしょうか・・・

 

                                                 女王卑弥呼の誕生