女王卑弥呼の力によって、倭国という統一国家がうまれた。

卑弥呼の死後、ふたたび男王が立ったが国がまとまらず、世は乱れたという。

宗女台与(イヨか?)が倭王となって、ようやく乱は鎮まった。

台与の治政は、ふたたび中国皇帝の冊封に入る。

以後、大陸側の権力争いで、倭国の記述(情報)は途絶えてしまう。

あとは、記紀の記述に頼るしかない。崇神・垂仁・景行の三代記。

崇神天皇(第十代)は、大和を治め四道将軍を派遣して、西は播磨や伊予、

東は美濃・尾張・角鹿にまで勢力を伸ばしたとされる。

いよいよ大和朝廷による列島各地への支配が延びてくる。

しかし、これが3世紀の終わりの出来事となれば、台与と同じ時代となる。

台与と崇神との関係、どう説明したら良いのか・・・

もし、台与が九州北部に居たとすれば、大和や瀬戸内地方、伊勢より東方には

支配は及んでいなかったことになる。その間、大和が実力を付けていたのである。

それでも、垂仁は、但馬や出雲(国譲り)を従わせるのにかなり苦労している。

そして、大和が九州征伐に乗り出したのは、その子の景行の代である。

景行やヤマトタケル(子)は、九州東部や南部・中部は何とか支配下に置いても、

肝心の北部九州の侵攻には、失敗している様なのである。

そのあとの仲哀・神功の代に、大和軍はじつに大掛かりな北部九州征伐を実行している。

ついに山門(福岡県みやま市)にいた田油津姫の攻略に成功!

田油津姫は、卑弥呼の末裔だとする有力な説がある。

ここに大和朝廷による倭国統一が実現した・・・

(参考:若井敏明著『邪馬台国の滅亡』)

となれば、めでたし、めでたしの感あれど、そうは問屋が卸してくれなかった・・・.

 

その後も、大和と北部九州は対立を続けていきます。時代は、古墳時代。

一番顕著な例は、[磐井の乱]です。これは乱ではなくて、まさに大和と北部九州の全面戦争であったと、最近の学会では定説となってきています。

古田武彦さんの[九州王朝説]は、極端過ぎると思いますが、私もまた倭国が一枚岩で弥生時代からずっと続いていたとする従来の定説こそ、おかしいと思います。水野祐さんの「三王朝交替説」、江上波夫さんの「騎馬民族征服王朝説」など、受け容れて検討するときが来ていると思います。大和王権の方も、決して一系ではなかった。そして、朝鮮半島との関係をきちんと捉えた歴史を明らかにすべきでしょう。「磐井戦争」の時も、大和は百済と親しかった。しかし、北部九州は、新羅と親しく交流を持っていた。戦争の背景にそのような問題もあったわけです。おそらく、倭国がまとまり、日本となるきっかけは、白村江の戦いでしょう。そこまでは、いくつかのクニが列島にあって、独自の領有権を主張し、文化を栄えさせていたと捉えるべきでしょう。

 

私は、最近、江田船山古墳に3度訪れました。これは、コロナ渦のお陰です。

つまり、熊本市在住の私にとって、近いところに遊びに行くのに、江田船山古墳は適当なのです。今は、公園として整備され、民家村や歴史資料館もあります。そして、古墳の近くを流れる小川のほとりでは、キャンプを楽しむ親子連れの姿も見かけます。ホント、良いところです。

 

江田船山古墳は、熊本県玉名郡和水町にある前方後円墳です。日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象眼銘を持つ太刀が出土したことで有名で、教科書にも載っています。国の史跡に指定されています。

 

さて、この古墳から出土した遺物(副葬品)は、東京国立博物館に納められ、国宝となっている。レプリカが、ここの資料館に展示されている。その写真を見て頂きたい。

 

 

これらは、新羅産の物である。私は、この古墳に祀られた人物(ムリテ)は、新羅の豪族(王)ではなかったかと思う。あちらの戦に敗れて、熊本のこの地に逃れてきた・・・

しかし、その子どもの代になれば、大和朝廷が何かとちょっかいを出してきた。そして、ときのワカタケル大王(雄略)の用心棒となって大和で仕えていたのだろう・・・ 同じく、埼玉県行田市稲荷山古墳の被葬者も、同じ釜のメシを食った仲だった・・・ その時の功労を讃えるものとして、この太刀を授かったのか・・・

さらにその子孫は、急激に力を伸ばしてきた八女(福岡県八女市)の磐井に屈することとなる。磐井の文化、すなわち、装飾古墳や石人を取り入れていることは、その証拠となろう。

そこでは、我々の想像を絶するドラマが展開されていたのだろう。

ああ、古代のロマン・・・ されど、史実はきちんと明らかにされるべし!

 

そして、特筆すべきは、超古代遺跡「トンカラリン」のナゾ!!

「トンカラリン」は、江田船山古墳と同じ台地にある。全長は464.6メートルもあって、人の手で造られた地隙や石組みの空間は、古墳の内部を思わせる。

「トンカラリン」の名前は、穴に石を投げ込むと「とんからりん」という音が聞こえることからつけられたという説と、朝鮮語由来の説とがある。残念ながら、地元の伝承が残って居らず、記述も全く見つかっていない。いつ、だれが、何のために造ったものなのか、全くのナゾである。エジプト考古学者の吉村作治氏は、石積みが布石積みという珍しい工法で造られていて、ピラミッドと同じやり方だと指摘しておられる。

また、作家の故松本清張氏は、この遺構こそ、卑弥呼の行っていた鬼道に使われたものだという説を発表されていた。

トンカラリンは、熊本県教育委員会が1974年に現地調査を行った。結果、「近世の排水路」との調査報告書を一旦は発表したが、用水路説と信仰遺跡説も検討すべきだと、将来の検討にゆだねている。

しかし、現地を訪れて、遺構の中に入ったことのある私などからすれば、あれは、「暗渠」ではない。すなわち、用水路・排水路説は、全くのデタラメであると肌で感じる。

おそらく、江田と呼ばれるこの地を治めた豪族が造った物・・・江田船山古墳に祀られた一族が造った物だと考えてしかるべしだと私は思う。つまり、造られた時代は、5世紀末から6世紀の中頃までであろう。その目的は、シャーマンの祈祷をする場所であると私は考える。そしてその思想は、半島由来だと、私は思う。

[トンカラリン]

YouTubeに参考となる動画がいくつかアップされている。

[トンカラリン]に興味ある方、パワースポットに興味のある方には、おすすめです。

    参考*『謎の古代遺跡 トンカラリンをカタカムナで解明する! 』 

              https://www.youtube.com/watch?v=6iuWYOHAcLM