(今回もよろしく御願いします。洋一の心の揺れ、沖縄戦の真実を読み取って頂ければ、幸いに存じます。最後までお読み下さい)

 

 自己嫌悪。絶望感。やる気は失せ、体に力が入らぬが、職場に向かう。

添乗員として観光客への対応に追われる。失恋の辛さなど感じている暇はない。
問題は帰宅してから・・・        
缶ビールをあおりながら、辛さを紛らわす。寝床の中で、みゆきにふられた時のことを思い出す。未練と嫉妬が同時に心の中でぐるぐる回る。色々な言い訳を思いつき、自分を慰める。そんな思考をしたところで、みゆきの気持ちがどうにかなるというものではない。       

苦しい。こんなにも苦しい・・・

ぼくは本気でみゆきを愛していたのだろうか・・・
愛するとはどういうことなのだろうか・・・
彼女のことが気になって気になってどうしようもない・・・これは恋。
恋を失う。すなわち、失恋。愛をも失ってしまったのか・・・
忘れよう・・・と思う。

 添乗員の仕事は、慣れてくると面白い。
沖縄本島ツアーで一番人気が高い海洋博記念公園を巡る。
沖縄国際海洋博覧会は、沖縄の日本復帰を記念して開催された。その会場跡地に記念公園が整備された。アクアポリスは、未来の海上都市をイメージして建造され、海洋博のシンボルとなった。(尤もその後、アクアポリスは、アメリカの企業が買収し、上海に持って行ってしまった。そのあとに≪美ら海水族館)がつくられたのである)
そんなアクアポリスをお客さんに案内して、バスの運転手さんやバスガイドさんと昼食をとる。しばしの談笑。バスガイドさんが「趣味は何ですか」と訊いてくるので、「女性と話をすることです」と答えた。「どんな女性が気になりますか」と訊かれて「バスガイドさんみたいな女性ですよ」と笑いながら答えた。「わー嬉しい。私独身ですからよろしくお願いします」とバスガイドさんも笑いながら答えられる。食事が終わり、またお客さんをバスに導きながら、次は、今帰仁村に向かう。古宇利島は、運天港から船に乗って行かなければならず時間がかかるが、すばらしい大絶景が広がる美しい海が魅力だ。そして、ハート岩がある。
(尤も現在は、屋我地島から約2kmの「古宇利大橋」が架かったおかげで、車ですいすいと古宇利島へ行けるようになった)
古宇利島には、ステキな伝説が残っている。
「昔々、この島に一組のカップルがありました。二人は、天から降ってくる餅を食べて生活していました。やがて備えが必要だと気づき、餅を蓄え始めると、餅は天から降ってこなくなってしまいました。ついに食べるものがなくなって、二人は、海に出て魚や貝を獲り、食べ繋ぐことにしました。その中で、働くことの大変さと偉大さを二人は知ったのです。ある日、いつものように魚や貝を捕っていたら、二人は、巨大なジュゴンの交尾を見ました。それで、男女の差や子作りについて理解しました。二人はすぐに子作りに励み、やがて子孫が増え、そうして、琉球諸島にたくさんの人が住みつくようになったのです」
バスガイドさんが、乗客のみなさんに説明された。
この伝説がもとで、この島は恋島と呼ばれ、転じて、古宇利島と呼ばれるようになった。
古宇利島ハート岩は、ティーヌ浜にある。
今や、ハート岩は、若い観光客のお目当ての場所となっている。
二つの岩が上手く重なるように移動して見ると、見事なハートの形を作り出す。
「綺麗な砂浜、まるで天国に来たみたい」
「まじで、二つの岩を重ねるとハート型をしています」
「また恋が出来ますか、添乗員さん・・・」
「新しい恋人が出来ますように、ハート岩に祈りましょう」
「ステキな恋が実りますように・・・」
「海岸に下りてハート岩を背景にカップル写真が撮れました」
「来て良かったー、きっと御利益があるよ」
本土からの観光客は大はしゃぎ。ぼくはとても嬉しくなった。
 最後の目的地、辺戸岬にバスが着く。
沖縄本島の最北端にある岬、辺戸岬。
岬は琉球石灰岩の絶壁から成り、広い台地には潮風に揺らめく緑が茂る。
此処に立てば、天気が良い日には、遙か遠方の与論島や沖永良部島を望むことができる。
戦後アメリカの統治下にあった頃、この場所で本土復帰を願うのろしを上げたのだ。
さらに、年に一度、辺戸岬と与論島との間で交流集会も行われていた。
この岬では、お客さんたちは自由行動としている。諸注意を伝え見送ったあと、ぼくは、岬の記念碑に立ち、遠く水平線を見渡した。沖縄の人は、祖国とは何か、日本人とは何かということを一番真剣に考えていたんじゃないか・・・
[我々にとって祖国とは何か] [我々は、日本人なのか]
いろいろ複雑な想いが胸中に渦巻きながらも、沖縄の人々は「祖国日本にかえりたい」という願いが大きくなっていったそうだ。苦悩の末、差別された悔しさや苦しめられてきた辛さを乗り越えられた・・・その苦悩は、ぼくのような未熟者には理解が出来ないほど・・・
一九七二年、沖縄の祖国復帰が叶って、辺戸岬に≪日本祖国復帰闘争碑≫が建立されたのだ。
ぼくはすでに数回ここを訪れているが、何時来ても緊張が走る。
その[日本人とは何か]の問いに、みゆきが放った「あなたは、所詮は本土の人だから、沖縄を裏切っていくでしょ」の問いが被さってくる。その答えを、ぼくは遠くにある水平線を眺めながら考えていた。
そして、ひとつ大切なことに気が付いた。
みゆきが話してくれた大切なこと。おばあの死因のこと。
彼女は、簡単に話せることではないことをぼくに打ち明けてくれたのだ。有り難いことだ。心を開き話してくれた想いは、受け止めていかねばならぬ。
爽やかな潮風が吹いてきた。漁船だろうか、遠くに小さな船が見える。当たり前の裏に苦悩と苦労在り。人生思い通りにならぬことだらけだ。くよくよしていたら、運が逃げていってしまう。失恋をして悲劇の主人公のように思っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
時計に目をやると、出発時刻が迫っていた。
「さあ、みなさん、そろそろ出発しますよ」
本土からの旅行客をバスに乗せ、恩納村のホテルへと送り届けた。そのお客さんたちが、ホテルでひと息ついたところで、ぼくは、会社に戻った。今日の実績をまとめ、仕事を終えた。時計を見ると、すっかり深夜になっていた。アパートに帰ると、疲れてすぐに眠りに就ける。
 日が経つのが早いと感じると同時に、傷心の心が薄まっていった。そして、遺骨収集活動への意欲が湧いてくる。すぐに金城さんに電話してみた。
「今度いつ遺骨収集の活動はありますか」
「お、っ、あ、ちょっと最近、体調が悪くってね。洋一君が私の代わりに活動を取り仕切ってくれないか・・・骨遺品収集活動、もう私には無理かも知れん」
金城さんは、時々途絶える声で仰った。かなり体調が悪そうである。
「ぼくにできますか・・・心配です。頑張る気持ちは持っていまが、すぐには無理だと思います・・・とりあえず、具体的にどうしたらよいか、教えてください」
「うん。じゃあ家に来てくれんか。て詳しく話すから・・・」
すぐに、ぼくは、壺屋にある金城さんの家を訪ねて行った。


 優しさと誇りに敬意を

 「洋一君、わざわざすまん。糖尿がきてしまって。毎日インスリンを打ちながらの生活だよ。無理したらいかんと、医者にも言われている」
金城さんはいかにも怠そうに、寝巻き姿で出てこられた。
「早く回復するよう、御躰を大切に・・・」
「どうぞ、上がって。ちょっとこの部屋で待っていてくれんか。資料を持ってくるので」
案内された部屋でしばらく待っていると、金城さんが別の部屋から書類やアルバムのような物を重たそうに持ってこられた。
「私のこれまでの遺骨収集に関わるファイル。これを全部洋一君に預けるから、参考にして取り組んでくれ。私はもう体力的に限界だと思う。だから、洋一君、頼んだ。きみにこの活動を託すよ」
「はい・・・活動を続けたい気持ちは持っています。でも、金城さんの為されてきたことを引き継ぎ、仲間にアドバイスを送るなど、荷が重すぎます。かなり不安です。とりあえず、少しずつ自分のやれる範囲でやっていこうと思いますが、宜しいでしょうか」
「ああ、慌てる必要はない。出来る範囲でいいんだ。幸い、メンバーの中には、知恵も経験もある者がいる。みんなで教え合い助け合って、活動を続けて欲しい」
金城さんの言葉に頷いた。そして、手渡されたファイルをじっくりと見ていった。
ページごとに日付が書いてあって、何処でどんな遺骨や遺品が出てきたか、写真を入れてよく分かるように整理してあった。
「とても参考になります。ファイルを見るだけで、活動のノウハウが分かります。よくぞここまで纏めて来られました」
「そうか。これからは、君がファイルの続きを綴っていってくれ。このファイルは、県の担当者や大学の専門家との交渉にも役に立つと思う」
「分かりました。このファイルが増えるように、遺骨収集の活動を続けたいと思います。出来るだけ金城さんに近づけるようにぼくも頑張ります」
金城さんは、ほっとした顔になられた。
「ところで、金城さんが遺骨収集の活動を始めたきっかけは、何だったのですか」
「きっかけか。それは自分自身も戦争体験者だからさ。目の前でたくさんの人が殺され亡くなっていった惨状をこの目が忘れない。そして妻も戦争が奪った・・・妻は日本兵からスパイと決めつけられて殺されそうになった。そのことが原因で苦しんで苦しんで、心がやられて死んだ。それはもう言葉では言えないぐらい辛いことだ。だから、夫として、生き残った者の務めとして、戦争の罪つぐないとして、せめて遺骨収集活動ぐらいやろうと思ったのだ」
ぼくは、みゆきから聞いていたとはいえ、同じ事を金城さんの口からも聞いて、やるせない気持ちとなった。

「あの頃は・・・悔しさ辛さで爆発しそうだった。殺された妻がかわいそう、かわいそすぎる・・・あれは、妻が亡くなって数日経った時だった。近所を歩いていると、道端に転がっている遺体を見たのだ。もう白骨化した戦争犠牲者の遺体を。まる焦げの遺体、肉が腐ってなくなって骨だらけ。終戦直後は、そんな骨が畑や崖下、木々の間などにあった。役所任せじゃ遺体の片付けは間に合わない。我々住民が自分で遺体の片付けをやっていった。遺体のそばには当然当人の物も在る。遺骨や遺品を家族の元へ帰してあげたい。だが、家族は生きておられるのか、何処に居られるのか分からない。行政に何とかできぬか働きかけもした」
ぼくは金城さんの言葉を黙って聞いた。
「生きて帰ってきた我々も、生活の立て直しに懸命だった・・・あの頃は、みんな生きるのに精一杯だった・・・」
「分かりました。金城さんのお気持ちを受けて、今、ぼくができることは、残された遺骨を掘り出し、遺骨や遺品を遺族の元へ返す活動を頑張ることだけです」
「そうか、良かった、嬉しいよ、洋一君が決意してくれて。では、今からこの資料の説明をするから、よく聞いてくれよ」
「はい。お願いします」
「これは何だか分かるか。真っ黒に焦げた米さ。アメリカは火炎放射器で壕の中に火炎を放ったでしょ。そのせいでこんな風に壕の中の食べ物は炭になってしまった。食べたくても食べられなかった。そのことを表している」
「この茶碗の欠片をよく見てごらん。内側の表面は綺麗な状態だと分かるだろ。つまり、茶碗はあっても、食べる御飯は無かったってことを表しているのさ。惨めだよ、ああ、本当に辛い」
「これは、日本兵が敵軍に切り込みを命じられたとき、死を覚悟して酒を呷った時の杯だと思う。ふるさとの家族のことを思い出しながらね・・・」
「これらの遺品一つ一つが、戦争の傷痕を物語っていますね。収集する意義はそこにありますね」
「洋一君。きみは、土一升・弾一升・骨一升という言葉を知ってるか」
「いいえ、聞いたことがありません」
「これは、戦後すぐの沖縄の土を掬えば、それと同量の弾や骨もある、という意味さ。沖縄戦で多くの人が犠牲となった。遺骨は散乱し、着ていた服も持ち物も焼けただれてしまった。誰の遺体なのか、誰の物なのか分からない。猛烈な鉄の暴風がすべてを破壊し焼き尽くしたからね。草木の間、さとうきび畑の中、焼けた住宅跡から、ごろごろごろごろ遺骨が出てきたね。住民が避難していたガマや人工の壕には、未だに遺骨や遺品が残されたままだ」
「遺骨や遺品は、戦後すぐはどうしていたのですか」
「たぶんこれが自分の家族のだろうと思う遺骨を集めて、それがあった場所に、小さな塚を作ったり、簡単な納骨所を作って遺骨を納めたりしていた。みんなで協力してね。しばらくすると納骨所は二百くらい出来たんじゃなかろうか。あとで、国立沖縄戦没者墓苑が造られて、みんなが祈りを捧げることが出来るようになった」
「そうだったのですか・・・」
「私たちの活動で、毎年、数十・数百の遺骨や遺品が見つかっている。まだ探せばいくらでも出てくる状態だよ。つまり、沖縄は、まだ戦後だと言って良い」
「本土防衛の為に切り捨てられた沖縄・・・犠牲者の追悼も未だ叶っていないのですね」
「沖縄戦で亡くなった人は約二十万人。その内、沖縄出身者が十二万人以上、九万四千人が民間人さ。つまり半数は地元の住民だったわけで、そのことからも、あの戦争が、沖縄とその住民を切り捨ててもよしとして進められたことは明らかだろう。本土決戦に備えるために、如何に沖縄で持久戦に持ち込み、時間を稼ぐかが作戦の基本にあったんだよ。最初にあった首里の司令部から南部の壕に移ったのも、地上戦で徹底的に戦い、時間を稼いで、体制立て直しを狙った。さらに本土決戦を遅らせることを目指していたのだ」
戦時中、戦後、そして今も、沖縄は本土のために犠牲になっている。あれから何十年も経っているが、自分たちの平和な生活の陰で、今なお戦争が残した傷痕が、沖縄の人々を苦しめている。これを未来への教訓として、平和な沖縄を取り戻さねばならぬ。
「とにかく、まだ誰も入っていない山林や壕からは、遺骨や遺品はたくさん出てくるはずだ。少しでも光を当ててやって欲しい」
金城さんは想いを込めて仰った。そして、ぼくに、次なる目的地を指示された。
「洋一君、次からは、ジャングルに入って探す作業に取り組んでくれないか。ジャングルって分かるか。地面が見えないほど草木が生い茂り、とげのあるツル科の植物が足場を奪う。さらに巨石の立ち並ぶ岩場は、非常に危険だ。ジャングルをかき分け、崖を下り、小さなガマや茂みにひっそりと眠っている遺骨や遺物を見つける。だから、細心の注意を払う必要がある。命の危険性がある場所だからね。下見と下準備、他の団体・土木業者との連携が必要になる。崩落事故だけは、避けねばならぬ。ガマへ行くとちゅう、下ばかり見て歩いていたら、自分がどこから歩いてきたか分からなくなる。必ず、所々に目印になる白いリボンを結びつけながら進んで行くこと・・・ここに詳しい地図を書いているから、参考にしてくれ」
「はい。下見、下準備から頑張ってみます」
「ガマに入る活動は、一人二人じゃ無理。まずは、現地を下見するだけでいい。事前調査のつもりで行くといい。あせったらだめ。いきなり、遺骨や遺品を探そうとすると無理が来る。不発弾も眠っている。安全に気をつけてじっくりやることが肝心さ」
「はい、分かりました」
「あっ、それからもうひとつ心配なことがある、今回の摩文仁のジャングルもそうなんだが、一部、地主が居る所もあるんだよ。私も二、三回トラブルになってさ。お前何やってるかーっ、勝手に入るな、と怒鳴られたさ。だから、今後は、県や町にも相談して、地主の了解を取りながらやらないと、この活動は批判されてしまう。せっかく良いことをしててもさ」
「なるほど、それは大切なことですね」
「摩文仁にはガマがたくさんある。比較的入口の大きい所は、中に入れると思う。そしたら、かなりの確率で、遺骨や遺品が見つかると思う。その時、ろうそくを持って入って。灯がともっている所は酸素があるから目安になる。くれぐれも、無理はしちゃならん」
「分かりました。今仰った事に気をつけて活動します。実際、仕事が休みの日になりますが・・・」
「ああ、頼んだよ。もうこれからは君たち若者が、戦争の記憶と記録を繋ぎ留めていく番だよ。洋一君がやってくれると言うから、嬉しいさ。ありがとう」
「大事なことを教えて下さって、ありがとうございます」
遺骨収集の場所の地図や写真、集めた遺骨や遺品のリストと写真・・・

そのひとつ一つに、亡くなられた方々の想いがある。

遺族の思い出が重なる。ぼくは、どんなに年月がかかろうと、遺骨・遺品収集活動をやりきりたいと思った。
そして、金城ファイル・・・本当に貴重な戦争の記録である。
「ところで金城さん、みゆきさんは、今日はおでかけですか。姿が見えませんが」
「いいや、私と一緒に住んではいないんだ。みゆきは此処の近くのアパートに住んでいる。最近あまり会っていない。多分、小学校の教師をやっているから、忙しいのだろ」
「そうでしたか。みゆきさんも遺骨収集活動に協力してくれると思いまして。では、失礼します。あっ、今度遺骨収集に出かける前に、必ず連絡しますね」
そう言って、金城さんの家をあとにした。
 翌朝、ぼくは目が覚めると、すぐ遺骨収集作業の準備を始めた。珍しく会社から二日の休みが貰えた。休みを生かし準備に入った。
まず、遺骨・遺品収集に必要な道具類のリストを作った。そして、現地の情報を集めるため、役所に電話を入れて訊いた。それから、これまでボランティアで参加して下さったメンバーに葉書を書いた。今後の遺骨・遺品収集活動の協力依頼を御願いした。
一段落ついたところで、お茶を飲む。沖縄本島南部だけでなく、首里方面や中部のガマについても情報収集せねばならぬと、金城さんから頂いた資料に目を通した。旅行会社に勤める者として出来る事があると気がついた。例えば、北谷村のチビチリガマにおける集団自決の悲劇についても、観光客に正しく伝えることも大切だと思う。
 チビチリガマの悲劇は、沖縄戦開戦当初に起きた。昭和二十年四月一日、沖縄本島上陸を果たした米軍は、すぐにチビチリガマに避難した住民を発見した。
ガマの避難民たちは、敵をやっつけようと竹槍を持って突撃した。しかし、ガマの付近には、すでに計り知れない数の戦車が集結しており、竹槍で突っ込む勇ましさとは裏腹の結果は、目に見えて明らかだった。やり場と逃げ場を失った住民は、死を覚悟した。
「いざ、自決」とサイパン帰りの将校が、ガマの中にある着物や毛布に火を付け、集団自決を決行しようとした。だが、四人の女性が、その火を消しにかかった。四人には幼い子がいて、その子らの命を守らんとしたのだ。
泣くな、ヨーイ、ヘイヨーヘイヨー
ひとりに一つしか無い尊い命を、親として、人として、絶対に守り抜くのだという強い意志が込められていた。
太陽(ていだ)の光受けた我が子、天からの恵みであるはかない命、その命を未来永劫繋ぐこと・・・
清らかな子供を想う心・・・
我が子を集団自決という無謀な行為から必死で守ろうとした母親の気持ち・・・
子をひたすらに想う気持ちに、人間として純粋にやるべき魂が込められている。

その想いは、米兵たちが「デテキナサイ。コロシマセン」と投降を呼び掛け、食べ物を置いていった言動に繋がっている。殺し合いの戦争の真っ只中、命の尊厳を何よりも考えた冷静さは、人間の人間たる証明である。

にもかかわらず、チビチリガマに避難していた約百四十人のうち、集団自決により、八十三人もの尊い命を亡くすことになってしまった。その六割が、十八歳以下の子供たちであったことを私たちは深く胸に刻むべきだと思う。チビチリガマの事実から、戦争とは何か、その本質が見えてくる。
よし、思い立ったが吉日。これからチビチリガマに行ってみるか。行けば学ぶべきものがあるはずだ。そのための手はずが必要だな、とりあえず、北谷村役場の担当に訊いてみよう・・・
受話器を取ったその時、どこかで聞いたことのある女性の声が、玄関の方からした。

 

 (今回はここまでです。最後までお読み下さり、ありがとう御座いました。生田魅音)