金城さんとの出逢い

 

 侘しさと慌ただしさを感じる四月一日。
ぼくは、学生寮を出てアパートを借り、一人住まいを始めていた。家電や箪笥なども買って揃えた。中古車も買った。生活用品は整ったが、大学時代と違い、一人で何もかもしなければならない。学食のおばちゃんや寮長はいない。相談できる親友や叱咤激励してくれる仲間もいない。二十二歳にして寂しさをじんじん感じる。ひとり部屋で、テレビをつけ、VHSレコーダーで録画を楽しむだけ。
 四月三日から旅行会社の勤務が始まった。笑顔で挨拶を心がけよう、そう誓って家を早く出た。会社に入ると、十三名の先輩社員が出迎えてくれた。新入社員は、ぼく一人だけである。挨拶と自己紹介をすると、先輩方も自己紹介をしてくださった。優しい人ばかり。先輩方は、「当たって砕けろ、仕事は経験が大事だ」と仰る。自分のデスクに座り、先輩から当面の事務仕事を頂戴する。一週間経つ頃には、伸び伸びと仕事に打ち込めるいい会社だとぼくは感じた。沖縄では、同僚を名字で呼ばず「洋一」とファーストネームで呼ぶことが多い。ぼくは、洋一と呼び捨てにされることに抵抗があったが、やがて慣れてくると、それが常識で職場が一つの家族のように想えてくる。そんな先輩方・上司に囲まれて、忙しさも、寂しさも紛れた。

数日後、簡単な歓迎会を催してくださった。
「洋一君、君の活躍に大いに期待しているよ。これからの沖縄観光を発展させる為に頑張ってくれ。君の力が是非必要だ」と上司から激励と期待の言葉を頂いた。
 ぼくの初仕事は、『旅程管理主任者』の資格を取ること。これは、ツアーコンダクターには必要な資格なのである。研修を受け、時間を見い出して『旅程管理主任者』資格試験の勉強に励んだ。
 次に、沖縄本島ツアーの企画の担当を任された。ツアープランニングの仕事は、難しいがやりがいがある。従来にない新しい場所をツアーとして組み込みたいという意気込みを持って、計画書を作成していった。まずは、ユーザーにアンケートをとった。「良かった、楽しかった、思いっきり遊べた、勉強になった」というプラスの意見と「不便だ、危険だ、きたない、きつかった、つまらなかった、遊べなかった」などのマイナス面の意見を受け止めてプランを考える。場所、時間、日程、食事、過ごし方、などについて分析・検討を行う。総合的にツアープランを決めていった。さらに、沖縄本島に関する細かな情報を集めていった。詳しい人に話を聞いたり、自分で現地に出向いて調査したりしてプランを考える。場所、時間、日程、食事、過ごし方、料金などについて案を作る。さらに、沖縄本島に関する細かな情報を電話で詳しい人に話を聞いたり、現地に出向いて調査し、観光客が楽しく充実した旅行になるか確かめていった。プランを決めると、決済を頂き、バス会社やホテルとの交渉に入る。バス会社やホテル側のニーズとの兼ね合いを調整する。そして、観光客の安全の裏付けをとるため、地主や県に許可を得る。
 本島南部のツアーにおいては、ひめゆりの塔、平和祈念資料館、ジョン万ビーチ、斎場御嶽は必ず入れるにしても、あと一つそこに『ガマ』を入れられないものかと考えた。
琉球石灰岩の浸食でできた自然洞窟、ガマ。地上戦・沖縄戦で、命からがら多数の住民や日本兵が隠れた場所となった。野戦病院として利用されたガマ。ひめゆり学徒隊の活躍などもあったが、そこで多くの人が亡くなり、言葉に尽くせぬ悲劇が誕生した。そのガマをツアーに入れることで、観光客が戦争と平和についてより深く学ぶことができるとぼくは思った。問題は、大型バスを駐められる駐車場があり、観光客が安全に中に入れるガマがあるかどうかだ。さっそくガマに詳しい人に電話を入れて訊いてみよう。ガマの調査と遺骨収集活動を長年されている金城さんという方に電話を入れてみた。すると「轟(とどろき)のガマならば大丈夫ではないか」と教えて下さった。そして、後日自ら現地を案内すると仰った。誠に有り難い。
 轟ガマを下見に行く日、早朝から案内される金城さんと一緒に車で現地に向かった。
金城さんは六十二歳。戦後、ガマに限らずあちらこちらで、沖縄戦で犠牲になられた人々の遺骨や遺品の収集をして来られた人。戦争を風化させてはならぬ、平和の大切さを忘れてはならぬと、三十年以上遺骨・遺品の収集に取り組まれ、遺族を探してこられた。
 轟のガマに到着した。ガマのある場所の横には、少し広い空き地があった。
「なるほど、ここならバスが横付けできますね」とぼくが言うと、
「そうだね。このガマは近いうちに沖縄県も観光地化しようと推し進めるはず。だから駐車場としても考えるはずだよ」と金城さんが頷いて仰った。
「駐車場ができれば、バスツアーの観光客もここに入れますね。さっそく計画に入れてみよう」「それはどうかな。目的は何かという所が引っ掛かる。単なる観光で此処に入ってもらっては困る。慰霊をし、平和について学ぶのならば良いけれど」
金城さんは厳しい口調で言われた。
「そうでした。観光客に正しく歴史を知ってもらうという目的を忘れて、駐車場のことばかり気を取られていました。すみません」
ぼくは頭を垂れた。
「そうだよ。観光客には、ガマに入る前に、予備知識を得て欲しいさ。そうして、ガマの中で、戦争と平和について、じっくり考えて欲しいんだよ。だから当然専属の説明員がいるだろう。それだけではないよ。観光客の安全や心のケアも考えておかないといかん。壕の中で気分を悪くしたり、霊感が強い人はショックを受けるかも知れない。そして、壕の中に入るには、長袖長ズボンやヘルメット、懐中電灯も必要だよ。そういうことまで配慮していこう」
「なるほど、そうですね。説明員の配置、観光客への配慮や条件整備をしていかないと、大変なことになりますね。ツアープランナーとして私の考えが甘かったです」
「まあいいさ。私もこのガマを観光地として生かせるものならやっていきたいと考えていたから、私が県庁に掛け合ってみよう。バスが入れる駐車場を作り、ガマの整備と保存管理が出来る職員が付くかどうか。その結果次第で、観光客が利用できるかどうかが決まる」
「あ、ありがとうございます。良かったです、頼りにしてます」
「さあ、壕の中を覗いてみよう」
金城さんが歩を進められるのでついて行く。樹木の茂りが両側に見られる。

登ってゆくと、大きな葉が見えてきた。厚みのある花弁。甘い香り。
白く小さな穂状花序の花を手にとって、優しく撫でられる。
「月桃だよ。見てごらん。赤い縁どりの苞葉から、白い花が突き出ているでしょ。いいものさ。そしてこの葉。沖縄ではサンニンと言って、節句の時にムーチーの包みとして使ったり、魚を包んで蒸し焼きにして香りを付けるのだ。健康茶や防虫剤としても使われている」
「ああ、聞いたことあります」
「あそこが入口。滑りやすいから、足元に気をつけて。此処と壕との高低差は二十メートルぐらいあるさ。降りていこう」
「ここがガマですか・・・」
水気の多いどろや石に気をつけながら壕の入口へ降りていく。ひんやりとした空気が漂い、霊気を感じる。暗い壕の中を覗くと、どろ臭い。
「この壕には、六百人もの住民・県庁職員が隠れていた。中は百メートルほど続いている鍾乳洞。水が湧き出ている。水があるおかげで、隠れていたほとんどの人が生き延びたんだ」
「生き延びた人が居たのですか」
「この壕に隠れていた県庁職員は、ほとんど助かって出てきたよ。なぜか知ってるか。ハワイから来たウチナンチューが『アメリカーは住民まで殺さんはず。出てきて大丈夫だよー。戦争は終わったさ』とみんなに呼びかけたから。それで、恐る恐る隠れていた人が壕から出てきたんだよ」
「ガマから出る時は、恐かったでしょうね。焼夷弾が爆発しないか、半信半疑で。本当に戦争が終わったのか、これからどうなるのか、不安だらけ。思い切ってガマから出てきた」
「ああ、そうだと思うよ。ガマから出た後も、すぐに現実が待っていた。食べること、住まい、仕事をどうするか、焼け野原からの再建だよ」
「必死だったのですね」
「ほとんどが県庁職員だったから、終戦後の沖縄をどうするか考えたり論議したりしたと思うよ。みんなで生き延びていこうという気持ちだった」
「すごいですね。ぼくには、想像もできません・・・」
「黙祷を捧げましょう」
金城さんが手をあわせられる。ぼくも目をつむり手をあわせる。戦禍で命を落とされた人々。その家族の想い。平和を誓って静かに祈った。
「行こうか」と金城さんは歩き出される。ごつごつ坂を上っていくと、また金城さんは月桃の花の所で立ち止まられた。
「あの時、壕から出てきた六百名は、ほっとしてこの白い花を眺めたことだろうな・・・」
ぼくも、しんみり月桃の花を眺めた。

ガマに隠れていた人々が、何を考えどんな想いでいたのか、無事出てきた後にどんな生活をされてきたのか、それまで考えたこともなかった。大学のゼミや卒論では、米軍基地の周辺住民の想いについて少し勉強したが、具体的な人間ドラマを何も知らない。これでは、観光客に何も伝えられない。
「今ははっきりしないが、当時は壕の入口を樹木の枝が覆っていて、アメリカの砲撃から守ってくれたのさ」
「なるほど。とても勉強になりました。今、金城さんからお聞きしたことを生かしていきます。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうさ」と金城さんはぼくの手をがっちり握りしめられた。
「折角だから、糸数のアブチラガマにも行ってみようか」
「あっ、はい。是非お願いします」
「じゃあ、私が案内するから、車出して」
金城さんの案内の通りに車を南東へ走らせて行く。
「アブチラガマは、全長二百七十メートル。日本軍の陣地壕や倉庫として利用された。そして、南風原陸軍病院の分室となり、軍医、看護士、ひめゆり学徒隊が配属された。沖縄戦を語るときには、欠かすことのできない重要な遺跡だ」
「着いたよ。ここで停めて」
車を降りると、金城さんは、何やら重たそうな道具を大きな布袋から取り出される。
「これさ。投光器付きヘルメット。これがないといかん。ガマの中は真っ暗だから、投光器付きヘルメットをかぶって、手には強力懐中電灯を持って行こう。スイッチはこれだから」
ヘルメットをして懐中電灯を持ち、気をつけて岩場を下っていく。ガマの入口は急で暗い。
「これからガマに入る。中は思ったより広いけれども、暗いし、つるっと滑りやすいからゆっくり歩いて。鍾乳洞だから、侵食された石灰岩の景色は見応えがある。中には綺麗な湧き水もある。触らず壊さぬように」
金城さんの知識と経験を頼りに、ぼくはアブチラガマに入った。入ってすぐ日本軍の兵器庫があった所と説明される。そこから先は真っ暗。懐中電灯で照らせば、大きな空洞が見える。鍾乳洞の天井は思ったよりも高い。頭上から、ぽたり、ぽたり、命の水。
冷たさ、そしてほこりっぽさを感じた。
金城さんが大きな壁を強力サーチで照らし出された。
「此処を見て。きらきらと光っているでしょ。アメリカが投げ入れた爆弾が炸裂した時に、弾が天井や壁に突き刺さった痕さ」
「この狭いガマの中に爆弾が投げ入れられたら、亡くなった方は多かったでしょう」
「爆発は一瞬だからね。たくさんの方が亡くなった。アメリカは、このガマに日本兵が隠れていると見込んでいた。爆弾をしつこく投げ込んだ。悲惨なのは、この中に地域住民がいっぱい隠れていたこと。住民が犠牲になった」
ぼくは、こんな真っ暗なガマに隠れていた人々の恐怖を想像してみた。
とても生きた心地がしない。身体が冷たくなってきた。
「こっちに行きましょう」
金城さんが灯りを頼りに進まれる後を着いて、ガマの奥へ進んでいく。
「この石垣は、爆弾の爆風よけに造った壁さ。焼夷弾や黄燐弾が爆発した時、少しは役に立ったのかな。こっちを見て。此処に水が溜まっているでしょ。これは湧き水で、人がいっぱい集まってきても、水が確保できたんだ。だから、あれだけの爆弾が放り込まれても、生き残る人が居たのさ」
そう言って金城さんはまた進んで行かれる。少し広い所が現れた。
「ここが病室。南風原陸軍病院の分室。ひめゆり学徒隊十六名がここで治療に当たっていたのだ。多い時だと六百人ばかりのけが人が此処で手当を受けていたと言われている。こんな狭い鍾乳洞にだよ。さらに負傷兵と避難住民とのいざこざがあり、日に日に亡くなっていく人たちが増える。そして、アメリカの馬乗り攻撃が立て続けに起きて、死体がいくつも転がって、目も当てられない状況。まさに地獄だよ」
「ぼくなら我慢できずにアメリカ軍に突撃していたと思います」
「亡くなった人たちは、そのまま放置されて死臭が壕全体に広がっていった。臭くて堪らない。それでもここから出るわけにはいかん。逃げたくても逃げられない。非国民と呼ばれるくらいならと、手榴弾で自決した人も少なからずいた」
金城さんは、突起した石に座ってしょんぼりと話された。

ぼくは、胸が締め付けられるような想いになった。
「此処が部屋だなんて・・・ただの真っ暗な洞穴じゃないですか。こんな所で、ひめゆり学徒隊の女学生が黙々と手当をされていたのですか・・・どんなに辛かったことか・・・」
「戦争というものは、人間の本性がむき出しになる。ガマの中に隠れていると、死と隣り合わせ。日本兵には、ガマにいる住民が、邪魔だと感じる。日本兵は住民を監視し、敵に投降する者はスパイとみなした。そして、住民を殺したんだ」
「ああ・・・スパイだ、非国民だと決めつけられることが、どれだけ恐いことであったか・・・」
住民を殺してその正義を果たそうとした人の想い・・・
お国のためだと言って、手榴弾で自らの命を絶った人たちの想い・・・
あの戦争は一体何だったのだろうか・・・
それらは、今や忘れ去られ、現代の若者の話題に上ることはまず無い。
ぼくは、戦争の本当の姿を目の当たりにして、黙り込むしかなかった。
「さあ、先に進もうか。次は、多くの現地避難民が居た場所だから」
歩を進める。鍾乳石。固い壁。その下に茶碗の欠片が見える。少し広くなった所。
「ほら、見て。ここに火を使った痕が残っているでしょ。此処で皆が集まって食事をしたんだよ。でも、あの人達は一体何を食べていたんだか・・・」
「食糧がなく、飢えていたことでしょう」
「此処に大きな鉄釜が残っている。だけど殆ど使っていない。理由は、米が無いからさ。米なんて全く手に入らなかった。無惨だよ。悲惨だよ。せっかく作った釜が何の意味も無い・・・」
ぼくには、金城さんが涙ぐんでいるように見えた。
「こっちは、一応便所だけども、垂れ流し。便所になっていない。糞尿の臭いが充満して苦しんだ人も多かった。その中で、ひめゆり女学生達が兵隊や住民がした糞尿をバケツに汲んで、外に運んでいた。夜中、米兵の監視をくぐり抜けてさ。本当に立派な人たちだ」
金城さんの話を聞いて、ひめゆり女学生たちの思いやりと優しさと勇気に感動して、ぼくは涙がこぼれ落ちた。
「こんな最悪の環境の中で多くの人が生き残った。アブチラガマにいた人々は、八月二十二日に、アメリカの呼びかけに応じてガマから出て来た。ただ、ひめゆり学徒たちは全員生きて出てきたものの、他のガマに移動する際に死んだ人もいたことが悔やまれる・・・」
ぼくは、涙を拭い、つばを飲み込み、さらに金城さんの話に耳を傾けた。
「このガマは、戦後すぐからずっと供養されてきている。でも、まだ亡くなった人たちの遺骨の収集は進んでいない。もう骨も原型を留めてはいない。見つけるのが難しいから、素人では拾いきれない。それに、色々ほじくってしまうと、壕の形を損ない自然を壊すことにつながる。簡単なことではない、遺品・遺骨の収集というものは」
御遺骨や御遺品を収集することの難しさ。戦争の傷跡は今なお残されたまま。
「では、行きましょう。少し行ったら、出口が見えてくるから」
歩いていくと、陽射しが差し込んでいる所に出た。出口だ。
「暗いガマの中から出てきた人々は、この陽射しをとても眩しく感じただろうね。そして出口に茂る草木に希望を感じたはずだよ」
「この草木たちは、戦禍を見届けてきたのでしょうか。今はこんなに優しく揺れて・・・」
ぼくらは、アブチラガマを出た。
「さあ、手をあわせて慰霊をしましょう」
「どんなに辛かったでしょう。どんなに悲しかったでしょう。無念の死を決して無駄には致しません。そして、戦後復興に尽力されてこられた人々の願い。その想いを必ず受け継いでゆきます」
ぼくは、ガマに向かい、祈りを捧げた。
すぐ近くのベンチに座って、金城さんは自らの戦争体験をぼくに話してくださった。
「私は十八歳の時、召集兵になった。すぐに、アメリカが攻めてきたので、首里の壕に隠れたんだ。アメリカも知ってたわけ、首里に日本軍の司令部があるって。だからもの凄い攻撃を仕掛けてきた。雨のように降ってくる爆弾。私の隠れていた壕も危なくなった。他の兵士とともに壕を出た。そしたら、いきなり後ろからバババーンって・・・先に出た人たちが、機関銃で撃たれ、ばたばたと倒れてゆく。私も、ああーっ、撃たれたと思って気を失った。しばらくして目が覚めた。助かったと喜んだ。でも、みんな死んでるわけさ。白目をむいて倒れている人、首から上がなくなっている人・・・もう恐くて体が震えだしたさ。アメリカが去った痕は、虐殺された死体がそこら中に転がって、腐敗臭が漂っていた。もう家も道路も自然も全く跡形もなく全部が壊滅した。その後、私は、米兵に捕まって収容所送りとなったんだ。収容所での生活は本当に辛かった。そして、毎日、こんな非国民でいいのかと自分を責め続けた。その収容所でマラリアで死んでいった友兵のことが、今も思い出される・・・」
「ぼくにはとても想像しきれません。目の前に知っている人が無惨な死体で転がっているなんて・・・首里から南部へ軍の司令部が密かに移った。それで、この南部一帯に米軍の砲火が集中したのですね」
「そうさ、日本軍は南部に籠もって、徹底抗戦の構えをとった。初めアメリカは、住民は殺さないって方針だったらしい。だから、頻繁に住民の投降を呼びかけ、日本兵の居場所をつきとめようとしていたわけさ。ところが、司令官のバックナー中将が、日本兵に狙い撃ちされてしまった。司令官を亡くした後のアメリカは、もう酷かったね。それから住民だろうが誰だろうが、無差別殺人になったんだよ。家ごと爆弾で吹き飛ばされ、家族皆殺しも少なくなかった。その結果、かなりの方が亡くなられた・・・」
金城さんをはじめ戦争体験者の証言。これを自分たち若者が語り継ぎ、これからの社会をつくっていかなければならない。平和の尊さを、今改めて心に思った。
「そのバックナーの慰霊碑にも行ってみましょうか」
金城さんが言われるので、車に乗り、当時の米軍司令官バックナー中将の慰霊碑に向かった。バックナーの慰霊碑で説明を受けた後、ぼくは、金城さんにお礼を言い別れた。
この日、一日で学んだことは、これまで生きてきた中で学んだいかなる事よりも貴重だった。
ぼくの心に突き刺さる話ばかりであった。
ぼくは会社に戻り、金城さんから聞いたこと、ガマで見たことを整理した。

 

  (今回も最後までお読み下さり、ありがとうございました。次回をお楽しみに。生田魅音)