安本美典著【誤りと偽りの考古学・纏向】を読んで

卑弥呼・邪馬台国研究に明け暮れて40年。
相当な物好き・暇人だと常々妻から叱られている私魅音でございます。
私は、畿内説だろうが九州説だろうがいっこうに構わない。
知りたいのはただ真実のみである。
かつて松本清張氏が邪馬台国の場所特定に挑まれた理由も、
推理小説以上の困難な謎解き、発掘調査・データ収集・観察・推理が必要で、
面白そうだからという理由であろうと私は思う。
そもそも私は古代史に於いて、井上光貞氏の次の意見がベースだと思う。
「もし皇室が大和に興ったとすると、弥生時代の畿内の祭器であった銅鐸は何らかの形で大和朝廷の祭祀や文化のなかに残ってもよさそうなものである。ところが銅鐸は山麓などでまるで打ち捨てられたように出土する。その反対に、北九州系の鏡・玉・剣は皇室の皇位のシンボルまでなった。これは、九州の支配者が銅鐸を持つ畿内の先住民を滅ぼしたことを物語っている」(井上光貞『日本の歴史Ⅰ神話から歴史へ』中央公論社刊)
じじつ福岡市西区大字吉武の吉武高木遺跡の3号木棺墓の副葬品には、銅鏡・青銅製武器・勾玉という組合わせが出土しており、これは【国内最古の鏡・剣・勾玉】である。すなわち「最古の王墓」と呼ばれる遺跡は福岡県に在り、すでに弥生時代中期に【三種の神器】が王権のシンボルとなっているのである。王権を象徴する【三種の神器】はその後、奴国(福岡市)で出土し、さらに伊都国(糸島市)で出土が見られる。反対に畿内では(卑弥呼時代)全く出土していないのである。
卑弥呼の活躍した時代は、西暦180年頃から亡くなったとされる248年までの時代である。それ以降は弥生時代は終わり古墳時代となる。古墳時代となれば、大和をはじめとした畿内の遺跡遺物は他地域を圧倒するのであって、この卑弥呼の時代には、北部九州が他地域(大和・吉備・出雲など)を圧倒している。
しかし、学会とくに纏向学研究センターなどは、この基本を無視・抹殺さんと邪馬台国畿内説をあの手この手で繰り出し、次々にマスコミに新発見として報告されている。当然の如く大和朝廷の前身邪馬台国は大和にあり、纏向には巨大建物群や桃の種など卑弥呼の祭祀のあとが見つかっていると主張されてきた。
もう学会を始めマスコミの各社も【邪馬台国は奈良県大和で決まり】となっている。
2月12日夜NHK【歴史ヒストリア・ニッポン鉄物語】が放映された。嫌な予感的中。

鉄を支配した大和王権は勢力拡大に成功したと結論づけられた。
デタラメ・偏向もいいかげんにしろ。鉄を支配したのは九州(の王族)である。
私は、全国各地の遺跡をまわり、そして地元の人々の話を聞いて事実を探るスタイルを採っている。その中でいくつかの古代史講演会にも御邪魔した。しかし、畿内論者ほど科学的根拠を示さずに「邪馬台国は大和に決まっているだろ」と言って壇上を降りられる。

 

そこに大きく反論し、【これは第二の旧石器捏造事件】と警鐘を鳴らされる学者さんがおられる。古代史をかじった者ならば誰もが知っている安本美典先生(産業能率大学教授を経て現在は古代史研究に専念)である。
怒りにも似た美典先生の主張。
私はその御主張・お怒りに大いに賛成致します。
半年ぐらい前に書店で買った安本美典著【誤りと偽りの考古学・纏向】を再び読んでみた。
美典先生の纏向学研究センターや地元教育委員会への指摘・糾弾は次の点である。
●纏向遺跡から出土したベニバナ(の花粉)は、魏志倭人伝の記述にある【絳】ではない。
 【絳】は茜である。
●弥生時代の鉄器の出土数を見れば、北部九州(福岡・佐賀・長崎・熊本)が畿内(奈良・大阪・京都・兵庫)を圧倒する。
 (例)鉄のやじり 福岡朝倉市28⇔奈良桜井市0⇔岡山倉敷市10
●庄内期(卑弥呼の時代)の鏡の出土数を見ても、福岡県は奈良県の10倍以上である。
 実際、奈良県出土の3面はいずれもホケノ山古墳出土であって、それも布留式土器の時 代の出土となれば、奈良県出土の鏡は0となる。また、勾玉や絹の出土数の比較に於いても同様である。この事実をして卑弥呼の都が纏向にあったと言えようか。
●鉄剣・鉄刀・鉄矛の出土数の比較。
 鉄矛は、福岡7⇔奈良0  銅矛・銅戈は、福岡203⇔奈良0
 5尺の刀(121cm)の出土地=福岡県のみ。魏の皇帝が与えた物と思われる。
●倭人の墓制は、魏志倭人伝では【棺あって槨なし】とある。棺(ひつぎ)を保護する外わくの    如きが槨である。槨のない棺・箱式石棺の出土数。
 福岡267⇔奈良0(岡山29,島根8)
 奈良県大和では、古墳時代の墓制は、槨のある棺となる。
●【桃の核と大型建物論争】も【ベニバナ論争】と同じで、「自らが持っている説を支持するような結果が出たのでマスコミに持っていっただけのこと。大切なことは、宣伝ではなく証明である」(P109~)。桃の核は岡山県の出土数が目立っており、その桃の核が卑弥呼の祭祀と何らかの関係があるという説はあやしい。

             表『安本美典著【誤りと偽りの考古学・纏向】より抜粋・引用

 

さらに、美典先生の指摘の中で私が尤も興味を惹いたのは、
「公務員研究者は、組織を背景に持つがゆえに、簡単にマスコミに登場、発表の機会が与えられる・・・そのために挙証判断がきわめて甘くなる・・・『思い込み・不勉強・お国ファースト主義』などが渾然一体となって、ほとんどまったく根拠を持たない事実をマスコミにしばしば発表する挙に出ている。『ウソも百回つけば、本当になる』というが、すこしひどすぎはしないか」である。(P23~26)

 

これまでに安本美典氏が主張されてきた、邪馬台国は99.9% 福岡県にあったの主張は、このような考古学的データにもとづくものである。

私は、氏の【邪馬台国東遷説】も有力な説として、さらにその証拠探しに各地を廻っている。

最近私が思うに、

①奈良県纏向あたりは、大きなムラ社会といえる遺跡なのかと疑問に思う。

②宮崎県に『筑紫の日向の橘の小戸』が在ったと言うよりは、福岡市の吉武高木遺跡に在ったのではないか・・・ 

遺跡を巡り巡って、私はその様な事を考えている。
もし、邪馬台国論争に決着を付けたいと思っている方がおられるならば、

安本美典著【誤りと偽りの考古学・纏向】をおすすめします。