(前回のつづき)

 

 二年目の沖縄の夏はとても暑かった。

ぼくは汗を拭き拭き本を読んだ。読書することだけが、楽しみであり、救いである。

かみしめながら西洋哲学書を読む。贅沢な時間を長時間味わえる。

とは言え、偉人の書いたものは、読んでもほとんど理解不能。参考書を買って理解に繋げた。
 そんなぼくに、神様から御褒美が与えられた。

大手を振ってアルコールが飲める日がやって来た。

ついに、二十歳の誕生日を迎えたのである。

相部屋の直人が発起人となって、ぼくの誕生祝いを企画開催してくれた。

直人は、神戸出身で、気さくに人の世話をかって出る正義感の強い男だ。

その直人が、ぼくに繋がるいろいろなヤツに呼びかけてくれた。

その御陰で、十人ほどの野郎が、寮のコンパ用の部屋に集まって来てくれたのである。

おお、有り難や。
「洋一、誕生日おめでとーう。かんぱーい」
直人が乾杯の音頭を取り、みんな缶ビールでぼくの二十歳を祝ってくれた。

畳敷きの部屋に輪になって座り、飲み始める。

勿論、藤本と田代も来てくれた。

あらゆる飲み会に必ず顔を出すという、強者だが、全く対照的な二人だった。

藤本は大阪出身で、遊び人であった。親が開業医で、仕送りが桁外れの男である。

おしゃれでチョビ髭の目立つ存在だ。常日頃、高級車を所有し女性をナンパしまくっている。

だが、なぜか相部屋の汚いこの寮に住んでいる。

きっと寂しがり屋なんだろう。そこだけは、ぼくと同じだ。

もう一人の田代は、福岡出身。牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、背中を曲げて歩く。

一見格好の悪い男だが、とても気配りのできる優男なのだ。

博多弁を絶対に崩さない。沖縄だろうが北海道だろうが、

博多の流儀で押し通す頑固な面も持ち合わせている。

そして、誰よりも物知り。

これまでもちょくちょく田代とは語りをしてきたが、この夜は、さらにじっくりと話ができた。

田代との話が盛り上がってきたところで、藤本のヤツがすっと立ち上がり、

さっそくマイペースぶりを発揮する。
「あんたら、ビールの正しいつぎ方知ってまっかー」と言いながら、

どこから持ってきたか知らないが、上等なガラスのコップを左手に持ち、缶ビールを注ぎ始める。
「さあ、見なはれ。缶は下を持って、グラスはこう傾ける。はじめは勢いよく注ぐ。

 炭酸が少しだけ抜けるように。その後はゆっくりと注いで、

 泡の量が全体の三割になるようにせなあかん。どうでっか、うまそうやろ」
とんとんとんと実演して見せた。全員仕方なく拍手を送る。

にこっと笑って藤本は座り直し、ビールを一気飲みする。

「ああーっ、うまーい」と全身で喜びを表現する。大爆笑。

他のメンバーもつられて一気飲みに走る。

ぼくも意外とアルコールはいける口なのだ。

一気に飲み干したら、早速、世間話やテレビの歌番組の話題になる。

たちまち大きな段ボール箱の缶ビールたちが、泡と消えてなくなった。

いよいよ、泡盛様の御登場となる。

「いよっ、待ってました」と一同拍手で迎え、直人が運んできた泡盛の一升瓶に注目する。

琉大生の銘柄はこれと決まっている。

安くてうまい泡盛さえあれば、文句は言わない。

さらにここで、ポークランチョンミート様の御登場さ。

田代たちがポークの缶を開けそのまま紙皿に移し、

ナイフで適当な大きさに切ってみんなの真ん中に置いてくれた。

めいめい泡盛を紙コップに注ぎ、注いだら次のヤツに回す。

氷や水はセルフだ。全員に行き渡ると、再び立ち上がり乾杯をする。

泡盛の芳醇な香りが口いっぱいに広がり、爽快感が全身に行き渡った。

ポークランチョンミートのうまみは、泡盛と絶妙のハーモニーを醸し出す。

「かーっ、さすが泡盛!うまいやっさー」と奄美大島出身の盛田が言う。

盛田は奄美にも独自の泡盛があると言う。

それに、奄美大島の文化と沖縄本島の文化が非常に似ていても、

鹿児島県と沖縄県に分かれていることは納得できんと言い出す。

ぼくは「それもそうだな」と言った。

酔いのまわった田代がそこに割り込んできた。また田代との話し込みに入った。
「洋一。おまえ読書家だって評判ばい。百冊は読んでいるってほんとか」
「うん、まあな。いいじゃん。堅苦しい話はやめて、飲め。飲めー」
泡盛を田代のコップいっぱいに注ぐ。それでも、田代は真剣な顔で、
「俺、将来は福岡に戻って、親父の会社を継ごうと思っとる。

 アルミサッシ工場を立て直したい。その為に、

 経営とか色々な本を読んどきたい」と打ち明ける。
「俺、せっかく沖縄に来たとだけん、彼女を見つけて福岡に連れて帰ろうと思うちょる。

 そして、彼女と一緒に仕事をしながら、両親に恩返しをしたい」しみじみ言う。
「へえー、おまえ将来の事、真剣に考えてるんだな。

 俺なんかまだ就職とか結婚とかは考えるに至ってない。

 だから今は読書に頼って、何かを見つけたいと思ってる」
「うんにゃ、俺なんか大したことなかばい。俺は現実的すぎて面白なかとたい。

 読書家の洋一を見習いたい。俺も、本をいっぱい読みたかと思うちょる。

 工学科だと文学を読まないってイメージだろ。読書せんと大学生として認められんし、

 教養がないって思われるけん。俺も哲学の本とか読んで、人生の何かを掴もうと思うちょる」
「そうか。哲学は良いよ。俺は最近、サルトルにはまってね。

 『嘔吐』を読んでいるが、なかなか理解できない。

 それからニーチェの『善悪の彼岸』、キルケゴールの『死に至る病』なども読んでいるけど、

 難しいね。でも、その難しさが夢中にさせてくれる」
「分かった、洋一。サルトルやらニーチェやら、読めばいいのか。

 うん、間違いなく俺の人生に役立つて思う」
つい、難い話に向かってしまった。今日はぼくの誕生祝いであった。

こんな面倒くさい話ではなく、もっと砕けた話、

女性の口説き方などについて語りたいと思っていたはずなのに。

酔いの回ったせいだろうか。そう思った時、藤本が場の空気を察して、
「寮歌を歌おうぜ」と切り出した。すると直人も「よし、歌おう」と立ち上がり、手拍子を始める。

関西人はノリが違う。指揮を始める藤本と直人。

それに合わせて全員で力んだ声を出し、寮歌を唄った。

寮歌が終わると、次は昭和歌謡の替え歌を次々に唄いまくる。

一人ずつ唄おうというルールになって、

どんちゃんどんちゃんと割り箸で瓶やコップを叩きながら、朝方まで歌合戦が続いた。

泡盛の一升瓶が五本空になって、ようやく会はお開きとなる。

次の日は日曜日とあって、ぼくたちは夕方まで熟睡していた。

このような無駄な時間が、ぼくらを活性化させ、将来に向けて突き動かすのだ。
 金曜日の夕方。講義が終わり、シャワーを浴びた。

疲れを感じるが、これから家庭教師のバイトに行かなければならない。

急いで準備をして出かけた。

教えている小六の男の子は、とても元気な子で、勉強が始まる前に、

いつもトランプなどをして遊んだ。そして、学校の宿題や問題集に真剣に取り組んだ。

思ったよりも素直ではないか。

夜食は、お母さんの作ってくださる沖縄料理。

いつしかゴーヤチャンプルーがぼくの好物となったのも、このお母さんのおかげだった。

だが、この日のお母さんはいつもと様子が違っていた。
「この子は、鹿児島の私立中学を受験させますので、力を貸してください」
家に着くなり、いきなり厳しい顔で言われた。どうやら、その中学、かなりの難関校らしい。

お母さんが渡された受験用過去問題集にさっと目を通すと、難問がずらり。

ぼくは気合いを入れ直し、男の子の部屋へ入った。
「では、数学からやってみよう」
一問ずつ解くように指示すると、男の子は、問題に食らいつくように解いている。

その横顔を見ながら、こんなにすばらしい空と海が広がっている沖縄で、がつがつ中学受験かよ、

自然の中で大いに遊んで、思い出を作る方が大切ではないか、男の子がかわいそうだ、と思った。

だが、勉強が終わったら、有り難きお母様の家庭料理が待っている。

万が一、お母様に文句でも言おうものなら、夕食はおあずけになるやも知れない。

ただひたすら男の子の解答に対して、アドバイスを送ることに徹した。勉強時間が終わった。

待望の家庭料理の時間。今日は、お父様も早めの帰宅をされて、食事をされていた。
「すいません、先生。息子がお世話になっています。本土の中学を受験させますので、

 どうぞ良いアドバイスをお願いします」とお父様が丁重に仰った。
「はい。今日の様子からすると、息子さんかなりいい線まで行っていると思います。

 文章題と因数分解がもう少しなので、そこを鍛えれば大丈夫でしょう」
「そうですか。やっぱり先生で良かったさ。先生が東京から来ておられる方だと聞いて、

 親として期待したんです。可愛い子には旅をさせろと言うでしょ。

 テーゲーとか、なんくるないさーで、沖縄でぬくぬく育つより、息子は本土に出て

 生きる厳しさを体験してほしいと思いましてね。どうですか、こういう親の考え方は」
「ぼくのような若造がどうのこうの言えません。

 でも、息子さんが家を出て、沖縄を離れることに抵抗はないのですか」
「いやだからさ、チャンスの場を広げてやりたいわけ。

 若い時にしかできない経験があるから、狭い沖縄に閉じ込めておくべきではないと

 ぼくは思うわけさ。だから、鹿児島の中学にやるわけさ」
「すごいですね。ぼくは、親の気持ちは分かりませんが、

 東京を飛び出してきた経験から、チャンスを広げるという考え方には賛成です」
「良かった、賛成して貰えて。それにしても先生は偉いですね。

 沖縄に来て色々大変でしょ。生活していて何が一番辛いですか」
「いいえ。特に辛いと思ったことはないです。

 ぼくは、大学の寮にいるので寂しいと思ったこともないし、寮食があるから食いっぱぐれもないし。

出会った人たちは皆さん親切ですから。

そりゃ、沖縄の独特の風習や言葉に戸惑うことはありますが、それは他府県でも同じですよ。

 どこに行っても、自分の出身地と違う言葉や文化はあります。それに慣れ親しむ努力は必要です」
「さすが、分かってるさ。でも、東京から沖縄へ出てくる際に抵抗はなかったか」
「じつは、大学からは親元を離れて一人で暮らしたかったんです。

 今思うと、ただの現実逃避でしょうね。それで、東京から遠くて、

 いろいろな面で違いのある沖縄に何となく魅力を感じて・・・受験した琉球大学に合格できたので・・・」
「そうか、親元を離れてみたいと思われた。偉いなあ。ぼくは沖縄から出たことないからさ。

 生まれてから今日まで沖縄から出たいなんて思ったことはない。

 やっぱり、若い時に目標を持って、冒険しようと思う野心が大切だと思うよ」
「そうですね。ぼくも、沖縄に来て色々学べるので、良かったと思っています。

 大学の講義では学べないことを、実際の生活で学べています」
「我々沖縄人は、内地への抵抗感は強くある。

 でも、息子には勤勉さとがまん強さを身につけて欲しいと思う。だから、

 先生のように本土から沖縄に来る人が増えた方が、刺激になっていいとぼくは思うさ。

 逆に、息子には本土に行って刺激を受け、自分の進むべき道を掴んで欲しいと思っている・・・」
切々と言葉を噛み締めるように仰った。

父親として精一杯のことを息子にしてあげたい、というお父様の気持ちが伝わってきた。
「さあ、あなた、話はそれくらいにして。先生どうぞ召し上がってください。多分初めて見る料理だと思いますが」
見ると、どんぶりには、真っ黒い汁物が注いであった。その黒さにぼくは驚いた。
「先生、何だと思いますか、その真っ黒の汁は」
「ちょっと分かりません」
「墨だよ、墨。先生、食べてみて」
お父様がそう仰るので、ぼくは、恐る恐る食べてみた。すると、なめらかな口当たりで甘味があっておいしい。

人は見かけによらないが、料理も見かけによらないことが分かった。こんなに美味しい沖縄料理は初めてだ。
「先生、これはイカの墨汁です。沖縄ではよく食べるんですよ。白イカの墨なんです。

イカと豚肉をかつおだしで煮て作ります。イカ墨汁には、悪い物を体から出す解毒作用があるのですよ。

くせや臭いがなくて美味しいでしょ」とお母様が優しい顔して仰った。
「見て、先生。歯は真っ黒」
お父様の開けた口を見ると、完全にお歯黒ができあがっている。

ぼくは、思わず笑ってしまった。

それにしても、沖縄料理のバリエーションの豊かさと、食材を無駄なく全部使いこなす、

いなせな心意気に感服させられた。その後も、お母様に色々な沖縄料理を作って食べさせて頂いた。

おかげさまで、ミミガーやてびち、もずくに麩チャンプルーなど、すっかり嵌まってしまった。

そして、お父様からは、清明祭の由来など、沖縄の風習について色々教えて頂いた。

そうして、男の子はよく勉強をし、見事、志望校に合格した。

盛大な合格祝いが催され、招待を受けたぼくは、お母様の手料理をたらふくごちそうになった。
 今はもう秋。誰も居ないぼくの部屋。

金曜日の夕方は、妙に感傷的になる。

男子寮の汚い部屋にぽつり居ると、精神までも汚染される。ぼくは、ふらふらと藤本の部屋へ行った。
「あのー、お邪魔します。何か音楽が聴きたいんだけど・・・」
「ああ、洋一はん、まあ座りい」
藤本がベッドの横に座椅子を持ってきてくれた。藤本の部屋はとても素敵だ。

まず、きれいなカーテンがある。ベッドの布団もきれいにしてある。

大型のテレビもあるし、最新のVHSレコーダーもある。

オーディオコンポさえある。全くぼくには考えられない家電のオンパレード。
「すごい物揃えているね。近寄りがたいほどだね」
「まあ、俺の親父が医者やから、金には困ってないんや。ここにある物全部、親父が買うてくれはった」
藤本は平気な顔して言う。おもむろにコーヒーメーカーを取り出し、

「はい、これ」とコーヒーを入れてくれた。とても良い香り・・・一口飲むと体中がほっとする。

ぼくは嫌いだったコーヒーもすっかり好物になっていた。
「この前はどうも。誕生会盛り上がってホンマ楽しかったよ。

 洋一はんは、ようけ本読んでまんな。部屋の本棚、本だらけでんなあ。俺にはまねでけへん。

 俺は、大学にいる間、遊べるだけ遊ぼうと思うてる」と藤本が正論の如く言う。
「そんなに遊べるもんか。大学生の分際で」とぼくが叱咤する。
「いや、俺は、遊びの限りを尽くそうと思うてるねん。いい服着て、いい酒飲んで、

 いいオンナ抱いて。ギャンブルもパチンコだけではない。

 俺、卒業して大阪に帰っても、多分、遊びまくると思う」
「そうか。でもそれならば、藤本は、大阪や東京の大学に行った方が良かったのではないか。

 沖縄では、そんなに遊べないだろ」
「俺、ただ何となく、沖縄に来たんだ。綺麗な海にあこがれて。海でナンパが出来ると思って・・・

 実際、此処は俺に合う良い所だと思う」
藤本は、レコードをオーディオコンポにセットし始めた。
「確かに、沖縄は良い所ではあるけど、遊び倒して、人生台無しにしないようにな・・・」
「俺、ビートルズが好きなんで。洋一はんも一緒に聴こ」と藤本は話をはぐらかした。
「いいコンポだね。音の臨場感がすごい」とぼくは問い詰めず、音響機器を褒めることにした。

考えてみれば、藤本の部屋を訪れた目的は、何かいい音楽を聴くことだった。
「この曲さいこー。大好きやー」と興奮気味に言う藤本。

「これがビートルズの最後だったんや」と説明する。

四人最後の大演奏。泣き叫ぶエレキと素晴らしきハーモニー。
沖縄の秋の夜長。
季節風がぼくらを誘うかの如く窓を叩き始めた。

 

  (次回につづく・・・)

 本日もお読み頂きまして、ありがとうございました。

                    生田 魅音