邪馬台国・畿内説の批判を繰り返してきたので、

自説の紹介をしよう。

 

私は、天照大神の正体は、卑弥呼だと捉える。

 

天皇家の皇祖神にして日本国民の総氏神である。
太陽神として、巫女として記紀には描かれている。
三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮に祀られており、
これは第10代崇神天皇が造った。
崇神天皇は、私は『ブラタモリ・岡山編』のブログでも紹介したが、
大和朝廷の基礎を作った偉大な王であった。
四道将軍を派遣し、おおむね畿内を統一することに成功した王でもあった。
崇神天皇の時代、畿内地方に疫病が大流行して、多くの民が亡くなった。
そこで、天照大神を伊勢に祀ることで、疫病を退治し、
崇神天皇は世の安寧と平和を祈ったのであった。
このことは、日本書紀にくわしい。
ひょっとしたら、崇神天皇の幼少の時、卑弥呼が亡くなった・・・
それくらいの時代認識で良いと私は考える。
では、何故、天照大神を大和の東の伊勢に祀ったのか・・・
ここが重要!
それは、崇神天皇は、卑弥呼の偉大な力を知っていたからである。
太陽信仰を鏡を使ってなしていた卑弥呼。
だから、平和と繁栄が続いた。
卑弥呼は、大乱の世が70年以上も続く列島をまとめ、
倭国という統一国家を生み出した偉大な女王であった。
そのことは、中国(魏)も一目置いて、『魏志倭人伝』に記した。
その力の偉大さを、崇神天皇は利用しようと考えたのである。
日の出ずる東の方に卑弥呼の霊魂を置いて、
畿内地方を護って貰いたいと考えたのだった。

 

では、卑弥呼はどこに都を置いたのか。
私は、卑弥呼は、伊都に産まれ、吉野ヶ里地方で育ち、
倭国王と成ってからは、高良山にて政務を執ったとの説をとる。
この説には、自信がある。
鏡とは何か。その原型は、やはり平原1号墳から出土した
直径46.5cmの巨大内行花紋鏡と捉えるしかない。
私は、卑弥呼の母(イザナミ)がこの鏡の所有者だったと捉える。
母から譲り受けた鏡を用いた日神信仰の業を確立したのが、
むすめ、卑弥呼であった。
そして、王と離ればなれで暮らし、教育を受けるために、
吉野ヶ里地方の豪族に預けられ、育っていったのだ。
宮殿、城柵、楼観厳かに設け・・・と魏志倭人伝に書いてある。
その遺跡は、現在のところ、吉野ヶ里遺跡しかない!!
そして、王と成ってからは見るもの少なし、と書いてある。
すなわち、身をまもるため、祈祷をやりやすくするため、山に籠もった。
その山こそ、高良山であろう。
高良大社のいわれを調べてみると、卑弥呼の足跡が伺える。
また、高良山には豊かな湧き水がある。
多くの巫女と共に倭国の繁栄と平和、五穀豊穣を日々祈っていた。
しかも卑弥呼は、女王になるときまで、多くの民と親交を持っていた。
だから圧倒的な民の支持を得て、争う三十国をまとめあげ、
稲作を広げ、水路や陸路を広げて、魏との交易も出来たのである。
偉大なる女王の軌跡・・・
そのことを記紀や神社、豪族たちは、天照大神として残したのであった。

 

以上を元にして、私は『愛の誓約(うけい)~卑弥呼物語』を書き上げた。