天皇陛下の即位に伴って行われる『大嘗祭』(大嘗宮の儀)が14日夕方より翌朝3時過ぎまで東御苑の大嘗宮で行われた。
天皇陛下は、古式にのっとり、国と国民の安寧や五穀豊穣を祈られた。皇室が祖とする天照大神に新米をはじめとした『神饌』を供えられた・・・
憲法に基づく国事行為ではないが、政府は「公的性格がある」として宮内庁予算の「宮廷費」から24億4000万円ほどが捻出されると報道された。
外陣には皇位の証しとされる三種の神器のうち剣と璽(勾玉)が置かれ、内陣には栃木県産『とちぎの星』を蒸したご飯や酒、海産物、果物などが運び込まれる。陛下は、内陣で天照大神が降りられる御座に腰を下ろされ、柏の葉で作った皿に米などを箸を使って供え、祈りのためのお告文を読み上げられた。自らも米や酒を口にする直会を行われた・・・
新聞やテレビでは、この24億4000万円を国民の税金で賄うことが如何なものかと論議・論評している。宗教色の強い皇室の行事をどうすべきか・・・

 

 

私の持論を示すときが来たと感じ、此処に記す。
ちょっと前の記事に、『国体』『この国のかたち』ということを調べてみようと書いた。
私は決して右翼ではない。右とか左とか政治色を云々せず、一歴史ファンとして、天皇の権威のルーツなるものを40年間追究してきた。脈々と続いてきた天皇家・・・天武天皇(第四十代)から考えても、1300年以上続いている。あの織田信長さえも天皇家を潰すことはしなかった。それどころか天皇の家臣となろうとしていたのである。秀吉は関白となり、家康は征夷大将軍となった。いずれも天皇の家臣としての地位を得ることで、十分だったわけである。
この『権威』の正体は何なのか、気になってしょうがなかったのである。
私は『万世一系』はなかったと捉えている。かつて水野裕氏が唱えられた『三王朝交替説』は決して定説とはなり得ないが、たとえば、神功皇后は武内宿禰の子を九州北部で身籠もり、仲哀天皇に代わってその子応神を天皇(大王)と成したと考える。すなわち、三輪イリ王朝に代わって河内ワケ王朝が誕生したのである。また、継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかはあやしい。水野祐氏は、継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとされた。私も十分ありうると考える。
それでも、万世一系の捉え方は、天武・持統の天皇の思想としてあった。『日本書紀』はこの考えに沿って作成され、万世一系の考えはそののちも続いていくのである。その理由は、この国の根幹に天照大神の存在(心)が欠かせないからである。天照大神の子孫であるからこそ、天皇は尊敬され、その権威は保たれてきたのであった。
既に前の記事に書いたが、私は、天照大神の正体は卑弥呼だと考える。
卑弥呼の存在の大きさは、中華思想の魏の皇帝でさえも一目置いたのであった。
大乱の世に在り、多くの犠牲者を出し戦ってきた倭人が、ついにまとまった。
それは、卑弥呼の共立というかたちで成し遂げられたという。
ここに、中国の東に統一国家『倭国』が生まれたのであった。
この事実は、東アジアの歴史の中で特に大きな事件だったと言わねばなるまい。
そして、私は、卑弥呼がなぜ偉大な女王であったのか、のちに天照という大神になったのか、その理由は次の五点だと考えるに至った。
○伊弉諾・伊弉冉の子で、伊都の王女として生まれ育ったこと。元々高い位の生まれであったこと。
○母伊弉冉の始めた銅鏡を使った祈祷を完成させ、その日神信仰は、多くの民衆を惹き付けたこと。今は薄れてしまったが、当時、太陽信仰を育んだ功績があった。
○稲作を広め、水田を各地に根付かせる施策をとったこと。米を主食とすることを列島各地に広めたこと。
○民衆の声を聞き、暮らしを守り高めようとしたこと。それ故、民衆から圧倒的な人気があったこと。
○だれよりも平和を愛する人だったこと。数十年にわたる大乱の世を鎮めた日巫女としての力は、偉大であった。いがみ合った三十国の豪族たちがその力を利用して共立したことは、倭国という統一国家を生んだという意味で非常に大きい。

そして、威信材として『三種の神器』が引き継がれてきたからである。
女王卑弥呼、あるいはその弟が所有していた鏡(天照)、剣(スサノオ)、勾玉(ツクヨミ)の権威を象徴する物が、『この国のかたち』となったのである。