結論ありき、思いつき、お国自慢、どさくさまぎれの自説主張・・・

邪馬台国論争では、これが多い。とくに近年の関連本は!

説を唱え、考えを主張されることは、尊重せねばならない。

しかし、歴史的事実を明らかにするという内容で、

卑弥呼の都した場所をテキトーに書いて本にするなど、如何なものか。

哀しいかな・・・邪馬台国畿内説ほど、主張は強いが根拠は乏しい。

 

現在、尤も有力とされる『纏向遺跡』あるいは卑弥呼の墓とされる『箸墓古墳』。

しかし、『魏志倭人伝』「記紀』の記述を見ても、考古学の発掘結果を聞いても、

纏向遺跡が、卑弥呼の都する所とは、言いがたい。

記紀の記述により、崇神・垂仁・景行の三代の都=奈良県桜井市、三輪山の麓にある

纏向遺跡。日本書紀に、磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮とあるのは、この三代の都が、

ここ纏向にあったことを示すものである。しかも、箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛命のお墓である。

邪馬台国畿内説では、この倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼だとする説が多く見られる。

しかし、現実問題、この人が、倭国の女王で在り、魏に遣いを出した三十国の共立した女王とは捉えがたい。

百襲媛命は、大和の大王の親戚の巫女であって、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えらない。

崇神天皇の陵墓が、考古学的に4世紀前後であることから、

崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼(248年没)である可能性はなくなる。

このあたりは、安本美典先生、若井敏明先生が繰り返し指摘されていることであって、全く異論の余地はない。

考古学の見地から見ても、纏向遺跡は祭祀を行う大型建物を中心とした都市型の遺跡だとされる。

それは、魏志倭人伝にみえるような、「宮室、楼観、城柵、厳そかに設け、常に兵を持ち守衛す」とはおよそかけ離れている。

そもそも、奈良県大和が卑弥呼の都だとすれば、瀬戸内はもちろん九州北部まで統一された国家でなければならない。

しかし、三十国の共立の如き記述が見られるのは、倭国は安定した統一国家ではなく、九州北部のクニと、大和のクニは

一枚岩ではなかったと捉えることが自然であると思える。

もう一度、資料分析、考古学の成果を素直にみることをすすめたい。

 

 

 

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