『愛の誓約 卑弥呼物語』 完成にあたっての祝賀

 

 ここに困難を極めた『愛の誓約 卑弥呼物語』がようやく完成し、わが国の古代史に於いて最も有名な倭国の女王卑弥呼の生涯を描くことが出来たことは、ただただ嬉しい限りである。周知の通り、卑弥呼その人のことは、所謂『魏志倭人伝』に登場するのみであり、何処に都をおいたのか、何故女王となったのか、その生涯は如何なるものか等、ほとんど分かっておらず、古今東西幾多の研究者の論争が尽きない。
 私は『魏志倭人伝』の記述をできる限り尊重する立場をとる。以下、卑弥呼に関する箇所を掲載する。
・・・その国、本また男子を以て王となし、住まること七,八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
・・・その八年、太守王頎官に至る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして都に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わし、困って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告諭す。
(参考:新訂 魏志倭人伝 中国正史日本伝(1)石原道博編訳 岩波文庫2006年版)
などの魏志倭人伝の記述を余すことなくこの物語に盛り込んだ。しかし、これだけでは卑弥呼に関する情報が不足し、生涯を描ききることは困難なことであった。そこで、古事記・日本書紀の天照大御神の記述が、卑弥呼の事を反映したものだとの説を採り、記紀の天照大御神の記述を参考にしながら、卑弥呼の人となり、家族、生涯を描いていったという訳である。天照(カリン・卑弥呼)の父伊耶那岐命(ナギ)、母の伊邪那美命(ナミ)、三貴子(アマミツ、スサオ)とすることは、卑弥呼の生涯を描くに欠かせない家族構成だと思っている。
 さらに、昨今の考古学の成果を最大限生かしながら、執筆を展開していった次第である。私は、四十年に渡り、九州各地、出雲、吉備、池上曽根遺跡(和泉市)、纏向遺跡等の弥生遺跡を歩きながら、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の都が何処であるかを探ってきた。自分の足で探った結果、世界最大の銅鏡が発見された平原遺跡一号墳(伊都国)は、卑弥呼の母の墓地であろうと私は確信を持った。それらからたどり着いた結論は、卑弥呼は、伊都国(福岡県糸島市)に生まれ、吉野ヶ里(佐賀県吉野ヶ里遺跡)で育ち、女王となってからは高良山(福岡県久留米市)で政務を執ったとの説に至った。高良山中腹に鎮座する高良大社は、九州最大級の神社建築であり、古代から筑紫の国魂と仰がれてきた。主祀神は、高良玉垂命。近くに存する伊勢天照御祖神社と併せて、この山が古くから信仰の対象となってきたことは間違いない。また今日、本殿に合祀されている豊比咩神社の祭神豊比咩大神こそ台与(壹与)であろう。私は、卑弥呼が実際に住んでいた王室は、高良山頂付近にある『奥の院』に存したであろうと考える。卑弥呼は、勝水といわれる霊泉を生活用水として利用し、山頂から倭国の民の暮らしを窺い見ながら、ここで祈祷をし、側近の弟(アマミツ)や愛人である男(陽炎丸)に命を下していたのだ。そして、魏志倭人伝言うところの、一大率及び難升米を素戔嗚尊(スサオ)とすれば、魏志倭人伝と記紀双方の記述に矛盾無く歴史物語が描けると捉えた。これが私説であるが、結構有力な説であろうと自負している。卑弥呼の墓は、高良山の麓にある祇園山古墳に比定した。この古墳から出土した甕棺は、伊都産の物だとされ、埋葬者は女性であったという。古墳の周りには殉死者のものと思われる小型墓が多数見つかっている。
 史料批判(古文書学)の分野での成果、考古学の分野での成果を集約して、総合的に判断したとき、天照大御神の正体が卑弥呼その人のことであり、女王の都した所は、九州北部だと言って然るべきである。それが尤も理にかなった論であって、今後それを覆すような大発見がない限り、他の論説には無理がある。
 じつは、魏志倭人伝には『邪馬台国』という地名は一回しか出てこず、あとは『女王国』となっている。私は、この『女王国』こそ、女王卑弥呼の居た高良山のある広大な筑後川流域だと考える。魏志倭人伝にある左の記述を素直に読んで考察すれば、筑後川流域地方に女王国があったと結論づけるしかない。遺跡発掘の成果に鑑みれば、平塚川添遺跡から吉野ヶ里遺跡に至る地域が女王国であろう。
■女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして詳かにすべからず
■その(女王国の)南に、狗奴国(熊襲の国=熊本)あり
■女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ・・・常に伊都国に治す
■女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり・・・倭の地を参問するに中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千里ばかりなり
 そして、私は『邪馬台国』は奈良県大和のことだと捉える。一見私説と矛盾しているが、これには理由がある。西晋の時代(二百八十年代とされる)以降、陳寿によって書かれた魏志倭人伝の原本は、写本を繰り返すうちに誤記が生じ、里数・方角にも誤りが見られるようになっていった。さらに時が経ち、落丁や誤植が目立つ魏志倭人伝(東夷伝全体・他の箇所も)の改訂を余儀なくされた。その改訂版には、卑弥呼が活躍した当時の都ではない大和(邪馬台)を女王の都と信じて、誤って記されたのではないだろうか。魏志倭人伝の再編作業が進められた時、倭国では、大和に都が移っていた。倭国側の記憶にも卑弥呼の都は定かではなく、やむなく大和(邪馬台)を女王の都だとしてしまった。さらに、倭国側の日数をもってその距離を示すやり方をそのまま採用してしまった。従って『南、至る邪馬台国。女王の都する所。水行十日、陸行一月』と書いて、のちの時代の人々を大いに混乱させることとなったのである。私は、果てしなく続く邪馬台国論争の起因を、その様に捉える。
 私は、卑弥呼が女王になれた理由、のちに天照大御神として崇められた理由を次の四点とした。
○伊弉諾・伊弉冉の子供で、伊都の王女として生まれ育ったこと。元々高い位の生まれであったこと。
○母伊弉冉の始めた銅鏡を使った祈祷を完成させ、その日神信仰は、多くの民衆を惹き付けたこと。
○稲作を広め、水田を各地に根付かせる施策をとったこと。米を主食とすることを列島各地に広めたこと。
○民衆の声を聞き、暮らしを守り高めようとしたこと。それ故、民衆から圧倒的な人気があったこと。
 なお、この物語は、古語を交えた現代文にて記述した。読者に分かりやすい記述を心がけた次第である。また、魏志倭人伝には「倭」「狗奴国」「卑弥呼」などの蔑称が用いられている。気になるが、人名・地名に関しては、物語を分かりやすくするため、一部を除いて魏志倭人伝の用語のまま使用した。あしからずご了承願いたい。

 

いずれ、自費出版にて本にしなければと思います。どこの出版社も相手してくれない。今日はまず、「物語執筆後記」と「挿絵」を掲載いたしました。以後、毎日、『卑弥呼物語』に関する情報・解説をブログに書きます。興味のある人は是非読んでください。

                                                        『女王卑弥呼の誕生』挿絵