みおボード -2ページ目

みおボード

みおさんの生活♪♪


きょう透析の間ずっと読んでて、何度も泣きました。。 闘病のことにそこまで触れてはいませんが、あの明るくて強かった上田さんが はっきりと自分の死期を悟っていたことがわかって切なかったです。
小さいころから死別や、今はもちろん人の死なんて普通に頻繁にある環境なのに、、今年いちばん、一度握手したぐらいで交流があったわけでもないのに(笑)これは堪えたなあ(;_;)

でも思ってたとおりの知的でありながらも、闘志と目標を達成する為の執念にあふれる方だったのがわかって嬉しかった。
私はキャスター時代はもちろん、監督時代はビデオでしか知らないので音符秩父宮FMの明るくて人をイジってばっかの上田さんが一瞬で蘇りました。笑
あれおもしろかったなあ。。高校生のときバックスタンドでひとり爆笑してたもんねニコニコ

第6章の石塚さんからバトンを受け継いで少年院で指導するシーンが衝撃でした。
最初はすぐ断ってしまったとこや、どうしてこんな普通な子が少年院に…周りの愛が足りなかったり、スポーツの楽しさに出逢えなかったからなのでは?って自問自答するところとか。
あと上田さんは常総寄りだったんでしょうけど、県内で慶應に一番貢献してるのはウチですよ~(*^o^*)

こんなふうに、強気だけど人が喜ぶことが大好きで、世話焼きで姉御肌な…私もそんな人間になりたいなあって思いました(*^o^*)
女子日本代表にも、上田さんが発掘して教えた選手が2名いるんだって♪

こんなすごい人がラグビー界にいて、今のブームを見ることなく旅立ってしまったなんて本当に信じられないです。
まあ多分、あの独特な口調でニコニコ「五郎丸だけじゃないよ」って言ってただろうけど(笑)
早慶戦の翌日も、トップリーグや大学選手権の展望も…この季節、やっぱ上田ブログがないと淋しいよぉ!!

清宮さん…帯 泣かせるな~!!

アフメト・ビュレント・メリチ(駐日トルコ共和国大使)

<日土友好のきっかけとなった事故>
エルトゥールル号海難事故は、トルコで日本のことが話題にあがると必ず触れられる事件です。
トルコ国内では広く一般に知られた事件で、親から子へ、子から孫へと大切に語り継がれております。
駐日トルコ大使館の入り口を入ってすぐのホールにも、エルトゥールル号の模型が飾られているほどです。

実は私の妻は日本人で、日本は私にとっても第2の祖国になります。しかし、そうした個人的な事情がないトルコ人であっても、エルトゥールル号海難事故を知っているのです。

事故が起きた当時の日本はまだまだ貧しい国でした。そして、日本とトルコの関係は、まだ特別なものではありませんでした。
それにも拘わらず、日本の人々は遭難したトルコ人のために一生懸命尽くしてくれたのです。
トルコ人はそうした日本人の行動に感動し、日本と日本人に対して親近感を抱くようになったのです。

ここで簡単に日本とトルコとの関係を振り返ってみたいと思います。

ご承知の通り、日本では1868年から明治維新が始まり、明治政府は開国政策を取りました。
そこで主に日本が目指していたのは、産業化が進んでいる西欧列強です。それと同時にオスマントルコ帝国への関心も見られました。

そんな中、日本の外交上、大きな役割を果たしていたのが岩倉使節団です。
1873年には岩倉使節団の一環として福地源一郎がロンドンからトルコに派遣され、日本とトルコは最初の接触を持ちました。ただし、当時は両国とも自らの国益に基づいて接触を試みている段階で、まだ友好関係は始まっていませんでした。

当時、日本、トルコの両国は、国土の拡大を続けるロシア帝国を警戒しており、「ロシアにどう対応していくか」を探っていました。
同時に日本は産業化を目指しており、オスマン帝国が日本の市場となる可能性があるかないか、という目でも見ていました。

そうした流れの中で、1887年(明治20年)に小松宮彰仁親王殿下・頼子妃殿下ご一行がトルコのイスタンブールを公式に訪問されました。
その答礼として、オスマン帝国の皇帝 アブデュル・ハミト2世が軍艦エルトゥールル号に答礼の親書を持たせ、日本に派遣することになったのです。


日本とトルコの間に友好関係が芽生えたのはここからだと言えるでしょう。
そしてエルトゥールル号が任務を終えて帰国の途についた1890年9月16日、エルトゥールル号海難事故が起きたのです。

この時、和歌山県串本の人々は生存者へ手厚い介護を行い、同時に亡くなった我が海軍将兵に対しても尊敬の念を持って接してくれました。

いま、樫野崎灯台のそばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑もあります。
今年9月には追悼式典も行われました。
こうした日本国民の姿勢がトルコ人の心に深く刻まれたのです。


日本とトルコの友情は、エルトゥールル号海難事故から始まったと言っても過言ではありません。
トルコはこうした日本人の姿勢、日本人への恩を忘れることなく、次から次の世代へと伝えて現在まで語り継いでいます。

もうひとつ、トルコが日本を強く意識する要因となったのは、日本が日露戦争でロシアに勝ったことにもあります。
当時のトルコの歴史書を見ると、「日露戦争で日本勝利の報が届くと、イスタンブルはお祭り騒ぎになった」と書かれているのです。

日露戦争の直前、当時のオスマントルコ帝国は1877~78年の露土戦争(93年戦争)でロシア帝国に負けています。
トルコはロシアをどう撤退させるのかについて、非常に関心を寄せている時代でした。

そういう時期に日本が日露戦争で勝利したことは大きな驚きであり、日本という国の存在を強く意識するきっかけになったのです。

<トルコでは教科書にも載っている>
私は現在58歳ですが、最初にエルトゥールル号海難事故のことを祖父から聞かされたのは、幼少期の1950年代後半です。
当時のトルコでは、親から子へ、子から孫へと語り継がれる口承の物語でした。

当時のトルコはアドナン・メンデレス政権の時代であり、ちょうど「日本の奇跡」が注目されている時期でした。

私たちの前の世代は、第一次世界大戦、第二次世界大戦という2つの世界大戦を経験した世代であり、当時はまだ世界大戦の記憶も新しいものでした。

ご承知の通り、第二次世界大戦は1945年に終戦を迎えます。
日本は敗戦から15年も経たないうちに産業化を成し遂げ、近代社会を成立させました。
トルコ国内でも「日本はどのようにして復興し、大きな進歩を成し遂げたのか」ということは大きな関心事でした。

そして1964年に行われた東京オリンピックが日本への関心を飛躍的に高めました。
それと同時に明治時代に起きたエルトゥールル号海難事故の話が新聞や雑誌で取り上げられ、再び日本への関心が高まったのです。

いまやトルコでは、エルトゥールル号海難事故は小学校の教科書にも載っています。
子供たちは事件について学校で学んでいるため、「日本」という言葉を聞くだけでエルトゥールル号海難事故を連想できるのです。


先日、下村博文・文部科学大臣とお会いした時に、大臣はエルトゥールル号海難事故を伝える日本の教科書を私に見せてくれました。
日本、トルコの両国が、両国の間に存在する友情の発端を忘れることがないようにお互いに努力していることは大変素晴らしく、また、喜ばしいことだと思っています。

さらに友好125周年を迎える今年、日本とトルコが合作で『海難1890』を創りあげたことは非常に重要です。
このプロジェクトは、次の世代、またその次の世代へと日本とトルコの友情を伝える上で非常に大きな役割を果たすと考えています。


日本とトルコは距離にして9000kmも離れていますから、お互い直接会える機会はそれほど多くありません。
それでも100年以上、トルコが日本に親しい感情を持ち続けてきた最大の要因は、日本もトルコも東洋の文化の一員であり、両国の社会的な価値観、習慣、伝統に非常に多くの類似点があるからです。

たとえばトルコには、「客人は神様の贈り物だ。自分が貧しくても、客人が訪れてきた時には自分が持つもの全てを提供しなければならない」という文化があります。
客人を大切にすることは、我々にとっては義務と同じ。それは日本の「おもてなしの心」と通じるものでしょう。

エルトゥールル号海難事故の際、和歌山県串本町のみなさんが発揮した精神が、トルコ国民にもそっくりそのままあります。
だからこそ、エルトゥールル号海難事故のような救出劇が遠い日本で起きたことが忘れられないのです。

第2の要因としては、両国とも植民地にならずに近代化を果たしたという共通点があります。

日本は1853年にペリーが黒船で来日して開国を迫られました。
しかし、アメリカの植民地になるわけではなく、日本独自の姿勢を維持しつつ、西洋から学んで独立を守ってきたという特徴があります。

一方、その頃のトルコはオスマン帝国が解体される歴史の途上にありました。
西欧列強がトルコを植民地にしようとしたり、分割しようとしたりしても トルコは解放戦争で勝利して独立を維持しました。

そしてその独立を強化するために、西洋から学んで近代化を果たしてきました。
そういう意味では、日本とトルコはたいへん似たような歴史をたどってきたのです。

我々が見出したのは「近代化は必ずしも西洋化を意味するものではない」ということです。
「西洋の意識を全て受け入れなくても、近代化を果たすことはできる」ということです。

日本には「和魂洋才」という言葉がありますが、トルコも日本と同じように、西洋から学んで自らの近代化を果たした国なのです。

そしてトルコ人たちは日本人と同じように、非常に友情を大切にします。
トルコ人は自分が受けた恩を決して忘れることはありません。表面上は忘れたかのように見えたとしても、いつか必ず恩に報いようと考えているのです。

<日本人を優先させたトルコ人>
『~1890年に起きた「エルトゥールル号海難事故」から95年が経過した1985年3月。日本とトルコの友情をさらに深める出来事があった。

同年3月17日、イランイラク戦争が激化する中、イラクのサダム・フセイン大統領が
「48時間後以降、イラン領空を飛ぶ航空機は民間機であろうと無差別攻撃する」という宣言を出したのだ。

世界各国は大慌ててイランに残された自国民を救出するための救援機を送った。
しかし、日本はイランへの航空便がなく、自衛隊は海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることもできなかった。
日本政府は日本航空に救援機の派遣を要請したが、労組の反対もあり実現しなかった。

日本政府、現地の日本大使館は邦人救出のために必死に航空券を集めた。
しかし、どの国の航空会社も自国民の避難を優先したために、テヘランには幼児を含む215名の日本人が取り残されてしまった。

この時、救援の手を差し伸べてくれたのがトルコだ。
当時のトルコ共和国のトゥルグト・オザル首相はトルコ航空の特別機をテヘランに向かわせ、イラン国内に取り残されていた日本人を全員救出した。
いわゆる「テヘラン邦人救出劇」である…』

トルコ航空が日本人救出のために救援機を出す際、危険な任務にもかかわらず、パイロットや乗組員は全員自ら志願して飛行機に乗り込みました。
両国の間に文化的な類似点が多いというのは、まさにそういうことです。トルコにも「大和魂」のようなものがあるのです。

テヘラン邦人救出劇があった時、私はトルコの外交官として ただひとりイスラエルに駐在し、臨時大使を努めていました。
地理的にも近い場所から、イラン・イラク戦争が中東地域全体に拡大するのではないかと 非常に危機感を抱きながら注視していたことを覚えています。

当時のトルコはイラン・イラク戦争において中立の立場を取っており、両国との関係は良好でした。
そうした中、オザル首相が邦人救出の決断を下したのです。
トルコ航空特別機が200人以上の日本国民を救出できたことは大変喜ばしいことだと思っています。


これもひとつの運命だと思うのですが、私は2000年から2年間、一等参事官としてイランのトルコ大使館で努めました。
その時、大使館のアーカイブで戦争当時のファイルを読み返しました。当時はイラン国内にトルコ国民も数多く取り残されていましたが、トルコ政府は自国民の救出に 空路ではなく陸路を使ったという記録が残っています。

イラン国内に取り残されたトルコ人たちは、一時は国外に脱出するために空港に集まっていました。
しかし、飛行機に乗れる人数は限られていました。彼らは日本人を優先的に飛行機に乗せて脱出させるために、全員が自分たちは陸路で避難することを決断したのです。

幸いなことに、陸路で避難した500人のトルコ人は全員が無事にトルコにたどり着いています。
テヘランからトルコ国境までは900kmの道のりです。早朝に出発すれば、深夜には国境に着く。
陸続きではない日本よりも、ずっと近いんですよ(笑)

ただし、エルトゥールル号海難事故の恩は、「やってもらったから返さなければいけない借金」のようなものではありません。
すでに両国の間には非常に強固な友情が確立されていますから、貸し借りの問題ではないのです。
今でも日本国民が困難に直面したら、トルコは必ず日本人を助けるための行動を取るでしょう。

ちなみにこの時の「テヘラン邦人救出劇」について、ほとんどのトルコ人は知りません。そのため、この話をトルコ人がすることはほとんどありませんよ。

一方で、トルコ人は今でも1999年にトルコ北西部を襲った大地震の話をしています。地震の直後に日本から2000棟の仮設住宅を贈られたことなど、日本からの援助を決して忘れていません…
それだけに、2011年に東日本大震災が起きた時には、誰よりも早く日本に助けの手を差し伸べたいという気持ちが非常に強くありました。

実際に、トルコは22名の救助隊員と5名の医療関係者など合計32名から構成される支援チームを3月20日から被災地に派遣し、約3週間にわたって行方不明者の捜索活動などを行ないました。

そして2011年10月にトルコ東部地震が起きた際には、今度は日本からたくさんの援助、支援が寄せられました。
この時、NPO法人「難民を助ける会」の宮崎淳さんが支援のためにトルコの被災地に入り、不幸にして余震で犠牲になられたことも、トルコ人は決して忘れてはいません。

今年9月に関東、東北地方で大水害が発生した際には、その日のうちにエルドアン大統領から駐日トルコ大使館に直接電話が入りました。
「トルコは日本のために何をすればいいのか?」と。

このように、トルコは常に日本とともにあるのです。

<日本のパートナーとして>
いま、中東地域ではDAESH(ダーイッシュ・ISISのアラビア語綴りが基になった呼び名)の問題がクローズアップされています。
今後も日本とトルコの友好関係を深めていくためにも、日本の皆様に理解していただきたいことがあります。

第一に私たちはDAESH を「イスラム国」とは呼びません。
彼らはイスラムとはまったく関係がなく、単なるテロ組織にすぎないからです。
そのため私たちは誤解を生まないように「DAESH」と呼んでいます。彼らは人に対しても、文化遺産に対しても、インフラに対しても破壊的であり、非常に残虐な集団です。

今年2月までに、2名の日本国民がDAESHの犠牲になったことにより、彼らの残虐性は日本人にも伝わったのではないでしょうか。

そして10月10には、トルコの首都・アンカラで爆弾テロが発生し、100人以上のトルコ国民が犠牲になりました。
国際社会はいまこそ一丸となってDAESHに対抗し、絶滅を目指さなければならないと考えています。

中東地域で起きている暴力、紛争が地政学的にトルコに影響を及ぼしているのは事実です。
しかし、こうした流れは一時的な現象であり、トルコは国際的地位、政治経済的な側面においてもこれから上昇していく傾向にあります。

トルコは安定した親日の国であり、中東地域における近代化、経済発展の象徴です。

これまでも、そしてこれからも、日本にとって信頼のおけるパートナーであるということを、日本の皆さまには理解していただきたいと思います。(終)

はえ~よ!って思いましたが、練習で栗きんとんと黒豆と伊達巻きをつくった。
1年ぶり‥腕はさびてなかったよ(^w^)てゆうかフードプロセッサーがあれば裏ごしとかもしなくていいし、ほんと楽だなあと思いました。

伊達巻きは手抜きのはんぺんじゃなく、ちゃんと魚のすり身を入れたチョキ黒豆は那珂湊市場ですっごい大きな豆が手に入るのが自慢!!

私は味見も試食もできませんから…日本一早くおせちが食べられて、みんなしあわせだなあ?笑

よし!今年は3段重を創ろう音符でもよく本に書いてある「アレンジおせち」とか子供も好きな…ってやつ、普通のおかずや洋食の一品料理じゃん!って気づいた(*^o^*)海苔巻きはお節とはゆわないよ*笑。
ローストビーフって挑戦してみようかなあ‥食べたことないな。焼き豚のおしゃれアレンジ、牛肉バージョン?キラキラ


今年の最後に、最高の感動作に出逢えました音符
1時間しか寝れなかったのに、きのうの治療~透析の間、ガチでずっと読んじゃった(o(*゜▽゜*)o)わぉひらめき電球ドライアイ解消。。

これぞ、みおがだいすき門田隆将さんスタイル全開ですドキドキ笑。 門田さんの本ぜんぶ持ってるっ!!
でもこれだけの作品を完成させるまでに、どれだけの苦労や執念…そして闘志があったのだろうと、、泣けたし、日本人として身が引き締まりました。

あとは政治の責任!!リベラルやマスコミ、古館や岸井が作りだす…怪しい「民意」などという敵に負けることなく、『国家』『日本』という芯を持って、軸がぶれずにがんばってほしいと思った(-_-#)

『海難1890』12・5公開音符 DVDになったらぜったい買います(*^o^*) トルコありがとう! エルドアンがんばれチョキ
フォローアップ外来を終えると子供さんと親御さんが皆かならずやってきてくれて、
「え~、、みおちゃんまだ退院してないの?」って(^w^)お決まりの会話が出来るのが幸せ。

親御さんが「あのときは大変でした」って言ってくれたり、今学生生活で取り組んでることとか、この日常を取り戻すために‥おこがましいですが、ほんの少し手助けが出来たのかなって嬉しく思います。
「そんなにツラいことなかったよ。退院が決まった時は、なんか嫌だったし…」って嬉しい言葉を戴きました(笑)

同時に、眼の輝きが病院に居た時とは違うことに気づき、もう今の私が同じことをしてあげても…クソつまらないドキドキ外の世界の人に較べたらピントがずれてるんだろうなあ♪笑

今日ラグビー悔しかったぁ!! なにあのクライマックス、、(-_-#)最後なんで、あの3番を止められなかったのか‥(笑)

まぁ、勝負ごとだから負けるのはしょうがないね(^O^) 膝から崩れ落ちた後輩が切なかったです汗
一生懸命つくった七五三のフォトアルバムと動画、手渡しできなかった全員のご両親に届いたかなあ?渾身の16バージョン音符
一応ストーリー仕立て☆やばい、個人PVに影響されてる~っ!笑

みおと信頼関係あるので(^O^)みんなちゃんと晴れ着?きて、カメラガールの指示に従ってくれたよチョキ
3歳の女の子ひとり(笑)されるがままニコニコご両親より先に七五三デビュー奪ってしまったぁ!(´・ω・`)
買ってきてもらった鹿嶋神宮のお守りと七五三グッズをあげて、倉庫に1年間眠ってた千歳飴つくる機械で、本物みたいに大きいやつは出来なかったけど、体のサイズに合ったコンパクトなの創ってあげましたドキドキ

平日どんなに分刻みのハードな治療スケジュールになってもいいから、日曜日は休ませて~って最近お願いしたら…今のとこ思い通りになってます(*^o^*)
でも、日々時間の自由がないからこそ、お休みのしあわせや有り難みがわかるし、毎日が日曜日だったら嫌だなあニコニコってマジで思いました音符

負荷や不条理があるからこそ、幸せをより感じられるんですよね~わかるかな?平和ボケして綺麗事ばかり言ってるインテリ連中に(-_-#)

12月、なんでもやるから‥めちゃめちゃ働きたいなあ。ワイドFMでニッポン放送をFMで聴けますから(笑)これで昼間どこにいても、倉庫に閉じこもっていてもだいじょぶだ。

大谷さんって‥最初の頃はあの熱い感じが苦手だったけど(笑)、今はすき。だいぶ昼のワイド番組らしくなってきましたねぇ音符
赤坂や浜松町みたいに、知性派ぶって‥バカみたいに昼間から堅い話をしないのがいい。一歩引いてクール&キュートに廻す東島さんといいコンビだと思うわ(*^o^*)

『悲しみの忘れ方』のDVD、退院した高校生の男の子に誕生日プレゼントのお返しでもらっちゃったチョキバイトして買ってくれた。笑やったぁ!
超うれしい。しかもブルーレイ?スタジオで夜中プロジェクターでひとり観て泣いた!!画質きれい(^O^)値段にしたら、元とれすぎで(笑)逆に申し訳なかったです。
まっちゅんのトコが切なかったです☆ひまわりのような明るさと、ガラス細工のような繊細さが同居してる、まっちゅんがだいすきドキドキ木曜日、少し肩の荷がおりて…みんなの夢が叶ったらいいなあ。

大晦日、副音声バナナマンさんだからニコニコ公式お兄ちゃんなんかやってほしい!!(*^o^*)
日村さんが「みんなかっこいいぞ~」って、まさかの号泣とか汗笑。ぜったい全員で出てほしいなぁ。37人全員だと「君の名は希望」でしょうか?寧々ちゃんのパート泣きそう。。

おくすり増えてフラフラなの。。。よくわたし毎朝3時50分に起きれると思う!
最近毎朝、コンビニバイトのあとドーナツ買ってあげてるの(o(*゜▽゜*)o)おじいちゃんおばあちゃんの朝食がわり。いいなあ~

けさ産経新聞50部売った!!初の50台。バンザ~イ音符中高生の少年少女が病院全棟、台車引きながらがんばって届けてくれました☆みんな間違いなく「新聞配達」がバイトデビューですねひらめき電球

「精神科のおじさんがありがとうすごいねって言ってくれたり、みんないい人だった」って聞いたときは嬉しかったなあ汗身を持って、人はみかけで判断しちゃいけない、ってわかってくれました(^O^)

ガンの一種で、よく知ってる2歳の女の子が子宮を除去してしまったけれども、、
20年30年先は飛躍的に医療は進歩してるだろうし、卵巣さえ残ってれば色んな出産のパターン?があるだろうし、、とりあえず手術成功してよかったなあって感動しました。

でもあんな小さい子でも抗がん剤使うんだなあ、切ないなあ。。
あっ、わたし抗がん剤否定派じゃないんで(*^o^*)みおも抗がん剤やモルヒネを音符確かな技術をもった先生のもと使わなかったら、こんな色んなこと好きなように出来なかったもんねドキドキ
最近、近藤誠批判が大勢になってきて本当に嬉しいですキラキラ アレはもう‥ガン患者の敵。広義の殺人者だと思うの(^O^)

何事も…極論を言ったり、現実や数字を見ずに理想論ばかり言ったり、ましてや陰謀論や悲観論を展開する奴は眉唾だと思わなきゃいけないと思った。

あした、わたしたち『反知性主義チョキ』が2連勝しますよう~に(笑)しかし‥なんでみお☆こんなにインテリが憎いんだろう?(*^o^*)
ヒゲとテツガクを涙目にしたいよぉ音符ば~か。。

この前親分の文章打ってたら、連打しまくりの衝撃か‥笑 数字の上のあたりの4連キー?
右ふたつのパネルが剥がれ落ちてビビった… あれ、はめ込んであるんじゃなくて、ただ乗ってるだけなんだよ!!笑。私の人差し指が汗ばんでたのかもしれない。

どう考えても絶対使うキーだったから、セロテープで頑丈に止めてショック!ボロボロさが愛嬌あっていいなって思いました音符もう5年使ってますから。。
あ~あ、スマホ欲しいなあ~って一瞬、頭をよぎったの(*^o^*)わぉひらめき電球

阿比留瑠比の極言御免

 安倍晋三首相が主要20カ国・地域(G20)首脳会議に出席のため13日からトルコを訪れるのを前に、日本とトルコの合作映画「海難1890」(12月5日公開)の試写を見た。


実話をもとに、時を超えた両国の友情と絆をしみじみと描いていて、感慨深い。

安倍首相とトルコのエルドアン大統領は今回、一緒にこの映画を観賞する予定だ。



 物語は1890(明治23)年、和歌山県串本町沖で遭難したトルコの軍艦「エルトゥールル号」の乗組員らを地元住民らが懸命に救出し、自らの食料をすべて供出してまで助けた史実が一つ。


 そしてその95年後の1985(昭和60)年、イラン・イラク戦争に巻き込まれてテヘランに取り残された日本人二百数十人に対し、

トルコが危険を承知の上で救援機を派遣し、自国民より日本人を優先して救出した出来事がもう一つの軸となっている。


第三国であるトルコによる邦人救出は、「エルトゥールル号」の恩返しという理由もあった。


<2つの出来事映画に>

 実はこの映画が制作されるに至るまでには、世耕弘成官房副長官の助力や、日本とトルコ両国首脳の理解と協力があった。


 田嶋勝正串本町長らから映画制作の相談を受けていた世耕氏が、平成25年10月のトルコ訪問前に安倍首相に話したところ、首相はエルドアン氏との会談でこう提案したという。


 「できれば2人で映画化を応援しないか」


 これにエルドアン氏は「素晴らしい。一体何をすればいいか」と応じ、安倍首相が「資金面やロケなどで協力してやってほしい」と答えると、その場で5億円の拠出を即決した。


これをきっかけに、映画化は具体的に動き出した。


 安倍首相はこれに先立つ25年3月、トルコのユルマズ国防相が来日した際に、その前月に死去したあるトルコ人パイロットへの弔意を伝えている。


 この人物は、日本人救出のため決死の覚悟でテヘランに向かった救援機のパイロット、スヨルジュ氏だった。

安倍首相は遺族に向けた弔辞でこう述べている。


 「スヨルジュ殿の功績を日本国民は決して忘れることはなく、日本とトルコの友好関係の中でいつまでも語り継がれることになるでしょう」


 安倍首相はこの年10月のトルコ訪問時には、「エルトゥールル号」の乗組員の子孫らと懇談し、

「日本とトルコの友情の原点」とも語っており、映画の題材となった2つの出来事をかなり重視しているようだ。


<道徳の教材に「手記」>

 昨年から使用されている文部科学省作成の教材「私たちの道徳」(中学生用)には、テヘランで救出された男性の「手記」が載っている。


同省によると、実際のエピソードをもとに創作したものだそうだが、なかなかよくできている。


 「なぜトルコ政府が救援機を出してくれたのか」


 この疑問が20年近く頭から離れなかった男性は「エルトゥールル号」事故を知り、現地を訪れるなどして事実を調べる。

そして危機に遭遇したトルコ人たちと、テヘランで空爆の危機に直面した自分たち日本人と重ね合わせる…。


 トルコでは「エルトゥールル号」事故は教科書にも載っている。

日本でも、トルコによる日本人救出はきちんと授業で教えるべきだろう。


いたずらに自国をおとしめる歴史教育よりも、他国との友情と相手への感謝を教えた方が、よほど友好に役に立つはずである。

(論説委員兼政治部編集委員)


  • 【トルコ自爆テロ】安倍首相が哀悼メッセージ 「心から哀悼の意を表す」
  • EPA交渉加速で一致 日トルコ首脳会談 写真あり
  • 【阿比留瑠比の極言御免】村山元首相の憲法ご都合主義 自衛隊は違憲→合憲→違憲状態
  • 【阿比留瑠比の極言御免】「不都合な民意」見ないふり 希薄な現実感覚、安保法案反対のデモと似ている
  • 【阿比留瑠比の極言御免】安保議論、半世紀前と変わらぬ野党の国会質疑
  • 「次は池田勇人路線」 総裁再選の安倍首相 支持つなぎ止め、日本取り戻す正念場~阿比留瑠比
  • (略)
    …今後、安倍政権は、内政においてはアベノミクス第2ステージをスピード感を持って推し進めていく。
    一方、外交においては、積極的平和主義を高く掲げ、「地球儀を俯瞰する外交」を引き続き展開していきます。

    10月下旬には、モンゴル、ウズベキスタン、カザフスタンに加え、日本の総理としては初めてトルクメニスタン、タジキスタン、キルギスを訪問しました。
    その後、ソウルで日中韓首脳会談に出席し、中国の李克強首相、韓国のパククネ大統領とも会談を行いました。
    2度目の総理になってからの2年10ヵ月で61ヵ国を訪れたことになります。

    外遊先では、トップセールスの果たす役割が極めて大きいことを実感します。
    日本の海外へのインフラ輸出は、民主党政権時代の約3兆円から9兆円へと増加しました。

    日本の高い技術力によって、各国に良質なインフラを提供していく。
    このことは日本経済の利益になると同時に、各国の発展にも寄与します。途上国が発展し、豊かになっていくことは、それぞれの地域を安定させ、平和な国際社会を創ることに繋がります。

    今年は「戦後70年」の節目の年でした。
    世界各国に日本の戦後の歩みを正しく評価していただき、その上で、これからの日本の歩みを理解していただきたい。
    その一心で、多くの国に出かけてゆきました。

    11月中旬からはトルコでG20首脳会談、フィリピンでAPEC首脳会議、マレーシアで東アジアサミットが開かれます。
    来年には伊勢・志摩サミットも開催されます。

    強い経済に裏打ちされた、日本の確かなプレゼンスを国際社会に示していきたい。そう決意しています。
    (文藝春秋最新号)
    安倍晋三(内閣総理大臣)

    私は、9月24日 自民党総裁再選を報告する両院議員総会後の記者会見で「アベノミクスは第2ステージへと移ります」と宣言しました。
    その展望を語る前に、まずは第1ステージの成否を私なりに振り返ってみようと思います。

    2012年12月。我々が民主党から政権を奪還した当時を振り返ってみますと、当時、日本経済はデフレの真っただ中にありました。

    物価が下がり、給料も上がらず、国の税収も低迷し続けていた。
    税収の低迷は、社会保障制度の基盤崩壊に直結します。漠然とした不安感に、日本中が包まれていたように思います。

    デフレ下では、経済が縮小していくのみならず、ものの見方や考え方までデフレ・マインドに陥ってしまいます。
    あの頃は、「日本はもう二度とデフレからは脱却できないんだ」という考え方が定着し、無力感すら漂っていました。

    そこで、政権を奪還した私が真っ先に掲げたのが、「デフレからの脱却」であり、そのための武器として持ち出したのが、アベノミクスの「3本の矢」でした。

    「第1の矢」は「大胆な金融政策」ですが、当初は批判の声が大勢を占めました。
    日本の伝統的なマクロ経済政策とは異なる政策ですから、ある程度の反発は予想しましたが、批判の苛烈さは、予想をはるかに越えていました。
    メインストリームの経済学者のほぼ全員から、「金融政策で物価を上げるなど、できるわけない」「無鉄砲な、極めて危うい政策だ」などとバッシングを受けました。

    しかし、バブル崩壊後の20年余り、あらゆる政権、あらゆる政策がデフレを解決できなかったのは厳然たる事実です。
    それはなぜか? 2007年に最初の総理の座を辞してからこの問題を考え続けてきた私は、批判を恐れ、リスクを取って思い切った政策を実行してこなかったからだと結論付けていました。

    アベノミクス第1ステージの成果は、今や皆さんに十分ご理解いただけたと自負しています。

    1ドル80円を切るような行き過ぎた円高は、是正されました。日経平均株価も8千円台から2倍以上、上昇しました。
    仕事が国内に回帰し始め、100万人以上の雇用を生み出すことができました。
    昨年の有効求人倍率(平均)は、1.09倍と7年ぶりに1.0を越え、23年ぶりの高水準となりました。

    正社員はどうなんだ、とのご批判もあります。確かに正社員に限った有効求人倍率は0.7程度ではありますが、この数値も、同統計が開始された04年以降では最も高い水準にあります。
    給料も17年ぶりの高水準となる賃上げを実現することができました。昨年冬のボーナスの伸び率も24年ぶりの高水準でした。

    成果を自慢したいがために数値を並べたわけではありません。ただ、客観的に数値を見れば、「日本はもう一度成長することができるのだ」という確かな自信を、我々日本人は取り戻すことができるのではないでしょうか。
    今まさに、日本経済は「デフレ脱却」まで もう一息というところまで来ているのです。

    <「新・3本の矢」のバックボーン>
    大胆な金融緩和とともに、もうひとつ、経済学者や有識者の方々からよく批判をされたのは、昨年末の「消費税増税延期」を焦点とした衆院解散・総選挙でした。

    ただ、私が最も重視したのは、我々の最終目標はデフレから脱却して日本経済を成長させ、税収を増やして財政健全化を図ることである、という一点でした。

    消費税を2014年4月に8%、15年10月に10%にするということは、2012年の民主党・野田政権時に激しい議論を戦わせた末に、
    当時の民主、自民、公明の3党で合意し、法律で定めたものでした。

    しかしながら、昨年、7月から9月のGDP速報によれば、個人消費は4月から6月に続いて 前年比2%以上も減少していました。
    4月に実施した消費税8%への引き上げが、個人消費を押し下げる「大きな重石」となっていることは明白でした。

    さらに10%へと再増税すれば、「デフレ脱却」の千載一遇のチャンスを自ら捨て去ってしまう、
    その一念で私は 決断を下したのです。

    ただ「税こそ民主主義」ですから、その根幹を大きく変更する際には 解散して国民の信を問うべきである、というのは、私にとっては当然の論理的帰結でした。

    先の上海株式市場の下落により顕在化した中国等の景気下振れリスクを鑑みるに、もしこの10月から予定通り消費税を10%に引き上げていたら、日本経済は今頃一体どうなっていたでしょうか。

    一方で、一部には「再来年4月からの消費税10%も、再延期も含めて柔軟に考えるべきだ」
    とする論調もありますが、それには与しません。

    リーマンショックのようなことが起こらない限り、2017年4月には消費税は間違いなく10%にします。
    同時に現在、その制度設計について議論を重ねている軽減税率も導入します。
    その時までに、何としても日本経済を上昇気流に乗せることが必要不可欠です。


    アベノミクス第2ステージの「新・3本の矢」はそのための手段です。

    第1の矢は「希望を生み出す強い経済」、第2の矢は「夢をつむぐ子育て支援」
    第3の矢は「安心に繋がる社会保障」ですが、まずは新・3本の矢を貫くバックボーンについてご説明しておきたいと思います。

    この2年10ヵ月、私は日本への投資を呼び込むために、13年夏のロンドン・ギルドホール、
    14年1月のスイスでの世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)、あるいは毎年の米ニューヨーク訪問など、世界各地で、私なりの言葉で海外投資家にアベノミクスをセールスしてきた。
    文字通り、「バイ・マイ・アベノミクス!」と強く発信を続けてきました。

    それは一定程度の評価を受ける一方で、海外投資家からはこんなシビアな声が常に聞こえてきました。
    「少子高齢化の中にある日本は、たとえどんな改革を進めても、今後必ず人口が減っていく。
    持続的な成長が見込まれず、投資リターンが期待できない」

    彼らからはいつも、「この構造的な問題を、アベノミクスはどう解決するのか?」という問いが突きつけられてきたわけです。

    日本が少子高齢化に死に物狂いで取り組まない限り、海外からの日本への持続的な投資は呼び込めない—
    これが私の紛うことなき実感でした。

    <愛ちゃんからの手紙>
    では、何をすべきか。第一歩が、少子高齢化の流れに歯止めをかけることであり、
    そのためのメルクマール(指標)が「50年後も人口1億人維持」なのです。

    現在の出生率(1.4)がこのまま続けば、50年後には日本の人口は8千万人余りとなります。なおかつ、総人口の4割が65歳以上という「超高齢社会」が出現します。
    さらに100年後には人口は4千万人となる。現在の人口の3分の1であり、それは国力衰退に直結します。

    終戦直後の日本の人口は約7千万人でした。そこから20年間、人口増と高度成長を続け、1967年に初めて日本の人口は1億人を突破した。
    国民の生活も年々豊かになり、70年代には「1億総中流」という言葉が流行しました。

    「1億人」は日本の豊かさの象徴的な数字です。50年後もこの1億人が維持できれば、その時点の人口構成比も65歳未満が3分の2となり、年齢階層別の不均衡も解消される計算になります。

    無論、ただ人口1億人を維持すればよい、というわけではありません。
    1億人のひとりひとりが活躍する。家庭で、地域で、職場でやりたいことができる。
    それぞれの能力を発揮できる、輝ける社会の仕組みを整備することが まさに政治の役割です。

    例えば「女性が輝く社会を作る」。これも政権発足以来、最重要テーマのひとつであり続けています。

    仕事と育児の両立に資するため、2013年度から、5年間で40万人分の保育受け入れ先確保を目指す「待機児童解消加速化プラン」に取り組んでおり、保育所整備を従来の2倍の速さで進めています。
    それでもまだ2万人以上の待機児童がいますから、今後もさらにスピードを上げていきます。

    また、男性の育児参加を促すために、昨年4月から、育児給付金は最初の半年間、休業開始前賃金の67%としました(以前は50%)。
    女性の潜在労働力(何らかの理由で働いていない就職希望者)は300万人以上です。
    対策をひとつずつ積み重ねていくことで、女性がさらに働きやすい社会を作ります。


    もちろん女性だけではありません。私自身が一度失敗した人間だからこそ強く主張したいのが、失敗しても再チャレンジできる社会の構築です。

    例えば米サンフランシスコにあるハイテク企業の一大拠点、シリコンバレーでは、才能ある多くの若者が起業し、少らからぬ人が失敗しているそうです。
    しかし、挑戦し、失敗した経験が むしろ周囲に評価される風潮があるといわれます。

    翻って日本はどうでしょうか。
    一度失敗すると「あいつは駄目だ」とレッテルを貼られる雰囲気が今も根強いのではないでしょうか。
    私が2度目の総理の座に挑むにあたっても、そうした雰囲気を感じました。

    しかし2度目の総理に就任して思うのは、一度経験したこと、挫折したことが、今あらゆる判断を下す際の大きな糧になっているということです。

    例えば斬新なアイデアを持つ若者や、豊富な経験を持って脱サラした人が果敢に起業できる環境を整えることが日本経済に新たなダイナリズムを生み出すでしょう。

    そのために政治ができることは何か。
    例えば、経営者自らが個人保証で融資を受けると、事業が失敗した時に家も財産もすべてを失い 路頭に迷うことになりかねません。

    この個人保証の慣習を断ち切ることで、起業を阻む心理的な壁を取り除けるはずです。
    日本政策金融公庫と商工中金ではこの1年半の間に、すでに個人保証なしで8万件、金額にして3兆5千億円の融資実績を積み重ねていますが、これをさらに促進したいと思います。


    また、私が潰瘍性大腸炎という難病を長年患ってきたのは周知の事実ですが
    そんな私に、生まれつき小腸が機能しない難病で幼い頃から普通の食事はしたことがないという 愛ちゃんという中学生(当時は小学生)から手紙が来たことがありました。

    大変印象深く、昨年の施政方針演説でも取り上げたのですが、病室を見舞った私に、愛ちゃんは可愛い絵をくれました。

    そこには「私は絵をかくのが好きで、将来 絵本作家になって、たくさんの子供を笑顔にしたいと思っています」と書かれていました。
    その後も何度か会ったり手紙のやり取りをしています。こうした難病に苦しむ方々が夢に向かって頑張ることができる社会をつくることは、私の天命であると感じています。

    昨年、『難病の患者に対する医療等に関する法律(難病医療法)』を成立させましたが、
    その結果、医療費を助成する範囲は従来の56持病から大幅に拡大して300持病になるなど、少しずつ改善を重ねています。


    私の地元、山口県・長門市の詩人、金子みすずの有名な詩にこんな一節があります。
    「絵と、小鳥と、それから私、みんなちがって みんないい。」

    十人十色。それぞれの特色があって、それぞれの希望がかない、それぞれが生きがいを持てる社会を私は作りたい。

    単に金銭的な意味での「1億総中流」を私は志向しません。
    そうではなくて、若者もお年寄りも、女性も男性も、
    難病を抱えた人も障害がある人も、一度失敗した人も、みんなが活躍できる社会を作るために、それを阻むあらゆる制約を取り払いたい。
    そうした思いから生まれたのが「1億総活躍」なのです。

    「1億総玉砕」や「1億総懺悔」を想起する、などという批判があるようですが、
    そうした、すべてを画一的な価値観に嵌め込むような発想とは全く逆の考え方から生まれたスローガンであることを、ぜひご理解いただきたいと思います。