アフメト・ビュレント・メリチ(駐日トルコ共和国大使)
<日土友好のきっかけとなった事故>
エルトゥールル号海難事故は、トルコで日本のことが話題にあがると必ず触れられる事件です。
トルコ国内では広く一般に知られた事件で、親から子へ、子から孫へと大切に語り継がれております。
駐日トルコ大使館の入り口を入ってすぐのホールにも、エルトゥールル号の模型が飾られているほどです。
実は私の妻は日本人で、日本は私にとっても第2の祖国になります。しかし、そうした個人的な事情がないトルコ人であっても、エルトゥールル号海難事故を知っているのです。
事故が起きた当時の日本はまだまだ貧しい国でした。そして、日本とトルコの関係は、まだ特別なものではありませんでした。
それにも拘わらず、日本の人々は遭難したトルコ人のために一生懸命尽くしてくれたのです。
トルコ人はそうした日本人の行動に感動し、日本と日本人に対して親近感を抱くようになったのです。
ここで簡単に日本とトルコとの関係を振り返ってみたいと思います。
ご承知の通り、日本では1868年から明治維新が始まり、明治政府は開国政策を取りました。
そこで主に日本が目指していたのは、産業化が進んでいる西欧列強です。それと同時にオスマントルコ帝国への関心も見られました。
そんな中、日本の外交上、大きな役割を果たしていたのが岩倉使節団です。
1873年には岩倉使節団の一環として福地源一郎がロンドンからトルコに派遣され、日本とトルコは最初の接触を持ちました。ただし、当時は両国とも自らの国益に基づいて接触を試みている段階で、まだ友好関係は始まっていませんでした。
当時、日本、トルコの両国は、国土の拡大を続けるロシア帝国を警戒しており、「ロシアにどう対応していくか」を探っていました。
同時に日本は産業化を目指しており、オスマン帝国が日本の市場となる可能性があるかないか、という目でも見ていました。
そうした流れの中で、1887年(明治20年)に小松宮彰仁親王殿下・頼子妃殿下ご一行がトルコのイスタンブールを公式に訪問されました。
その答礼として、オスマン帝国の皇帝 アブデュル・ハミト2世が軍艦エルトゥールル号に答礼の親書を持たせ、日本に派遣することになったのです。
日本とトルコの間に友好関係が芽生えたのはここからだと言えるでしょう。
そしてエルトゥールル号が任務を終えて帰国の途についた1890年9月16日、エルトゥールル号海難事故が起きたのです。
この時、和歌山県串本の人々は生存者へ手厚い介護を行い、同時に亡くなった我が海軍将兵に対しても尊敬の念を持って接してくれました。
いま、樫野崎灯台のそばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑もあります。
今年9月には追悼式典も行われました。
こうした日本国民の姿勢がトルコ人の心に深く刻まれたのです。
日本とトルコの友情は、エルトゥールル号海難事故から始まったと言っても過言ではありません。
トルコはこうした日本人の姿勢、日本人への恩を忘れることなく、次から次の世代へと伝えて現在まで語り継いでいます。
もうひとつ、トルコが日本を強く意識する要因となったのは、日本が日露戦争でロシアに勝ったことにもあります。
当時のトルコの歴史書を見ると、「日露戦争で日本勝利の報が届くと、イスタンブルはお祭り騒ぎになった」と書かれているのです。
日露戦争の直前、当時のオスマントルコ帝国は1877~78年の露土戦争(93年戦争)でロシア帝国に負けています。
トルコはロシアをどう撤退させるのかについて、非常に関心を寄せている時代でした。
そういう時期に日本が日露戦争で勝利したことは大きな驚きであり、日本という国の存在を強く意識するきっかけになったのです。
<トルコでは教科書にも載っている>
私は現在58歳ですが、最初にエルトゥールル号海難事故のことを祖父から聞かされたのは、幼少期の1950年代後半です。
当時のトルコでは、親から子へ、子から孫へと語り継がれる口承の物語でした。
当時のトルコはアドナン・メンデレス政権の時代であり、ちょうど「日本の奇跡」が注目されている時期でした。
私たちの前の世代は、第一次世界大戦、第二次世界大戦という2つの世界大戦を経験した世代であり、当時はまだ世界大戦の記憶も新しいものでした。
ご承知の通り、第二次世界大戦は1945年に終戦を迎えます。
日本は敗戦から15年も経たないうちに産業化を成し遂げ、近代社会を成立させました。
トルコ国内でも「日本はどのようにして復興し、大きな進歩を成し遂げたのか」ということは大きな関心事でした。
そして1964年に行われた東京オリンピックが日本への関心を飛躍的に高めました。
それと同時に明治時代に起きたエルトゥールル号海難事故の話が新聞や雑誌で取り上げられ、再び日本への関心が高まったのです。
いまやトルコでは、エルトゥールル号海難事故は小学校の教科書にも載っています。
子供たちは事件について学校で学んでいるため、「日本」という言葉を聞くだけでエルトゥールル号海難事故を連想できるのです。
先日、下村博文・文部科学大臣とお会いした時に、大臣はエルトゥールル号海難事故を伝える日本の教科書を私に見せてくれました。
日本、トルコの両国が、両国の間に存在する友情の発端を忘れることがないようにお互いに努力していることは大変素晴らしく、また、喜ばしいことだと思っています。
さらに友好125周年を迎える今年、日本とトルコが合作で『海難1890』を創りあげたことは非常に重要です。
このプロジェクトは、次の世代、またその次の世代へと日本とトルコの友情を伝える上で非常に大きな役割を果たすと考えています。
日本とトルコは距離にして9000kmも離れていますから、お互い直接会える機会はそれほど多くありません。
それでも100年以上、トルコが日本に親しい感情を持ち続けてきた最大の要因は、日本もトルコも東洋の文化の一員であり、両国の社会的な価値観、習慣、伝統に非常に多くの類似点があるからです。
たとえばトルコには、「客人は神様の贈り物だ。自分が貧しくても、客人が訪れてきた時には自分が持つもの全てを提供しなければならない」という文化があります。
客人を大切にすることは、我々にとっては義務と同じ。それは日本の「おもてなしの心」と通じるものでしょう。
エルトゥールル号海難事故の際、和歌山県串本町のみなさんが発揮した精神が、トルコ国民にもそっくりそのままあります。
だからこそ、エルトゥールル号海難事故のような救出劇が遠い日本で起きたことが忘れられないのです。
第2の要因としては、両国とも植民地にならずに近代化を果たしたという共通点があります。
日本は1853年にペリーが黒船で来日して開国を迫られました。
しかし、アメリカの植民地になるわけではなく、日本独自の姿勢を維持しつつ、西洋から学んで独立を守ってきたという特徴があります。
一方、その頃のトルコはオスマン帝国が解体される歴史の途上にありました。
西欧列強がトルコを植民地にしようとしたり、分割しようとしたりしても トルコは解放戦争で勝利して独立を維持しました。
そしてその独立を強化するために、西洋から学んで近代化を果たしてきました。
そういう意味では、日本とトルコはたいへん似たような歴史をたどってきたのです。
我々が見出したのは「近代化は必ずしも西洋化を意味するものではない」ということです。
「西洋の意識を全て受け入れなくても、近代化を果たすことはできる」ということです。
日本には「和魂洋才」という言葉がありますが、トルコも日本と同じように、西洋から学んで自らの近代化を果たした国なのです。
そしてトルコ人たちは日本人と同じように、非常に友情を大切にします。
トルコ人は自分が受けた恩を決して忘れることはありません。表面上は忘れたかのように見えたとしても、いつか必ず恩に報いようと考えているのです。
<日本人を優先させたトルコ人>
『~1890年に起きた「エルトゥールル号海難事故」から95年が経過した1985年3月。日本とトルコの友情をさらに深める出来事があった。
同年3月17日、イランイラク戦争が激化する中、イラクのサダム・フセイン大統領が
「48時間後以降、イラン領空を飛ぶ航空機は民間機であろうと無差別攻撃する」という宣言を出したのだ。
世界各国は大慌ててイランに残された自国民を救出するための救援機を送った。
しかし、日本はイランへの航空便がなく、自衛隊は海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることもできなかった。
日本政府は日本航空に救援機の派遣を要請したが、労組の反対もあり実現しなかった。
日本政府、現地の日本大使館は邦人救出のために必死に航空券を集めた。
しかし、どの国の航空会社も自国民の避難を優先したために、テヘランには幼児を含む215名の日本人が取り残されてしまった。
この時、救援の手を差し伸べてくれたのがトルコだ。
当時のトルコ共和国のトゥルグト・オザル首相はトルコ航空の特別機をテヘランに向かわせ、イラン国内に取り残されていた日本人を全員救出した。
いわゆる「テヘラン邦人救出劇」である…』
トルコ航空が日本人救出のために救援機を出す際、危険な任務にもかかわらず、パイロットや乗組員は全員自ら志願して飛行機に乗り込みました。
両国の間に文化的な類似点が多いというのは、まさにそういうことです。トルコにも「大和魂」のようなものがあるのです。
テヘラン邦人救出劇があった時、私はトルコの外交官として ただひとりイスラエルに駐在し、臨時大使を努めていました。
地理的にも近い場所から、イラン・イラク戦争が中東地域全体に拡大するのではないかと 非常に危機感を抱きながら注視していたことを覚えています。
当時のトルコはイラン・イラク戦争において中立の立場を取っており、両国との関係は良好でした。
そうした中、オザル首相が邦人救出の決断を下したのです。
トルコ航空特別機が200人以上の日本国民を救出できたことは大変喜ばしいことだと思っています。
これもひとつの運命だと思うのですが、私は2000年から2年間、一等参事官としてイランのトルコ大使館で努めました。
その時、大使館のアーカイブで戦争当時のファイルを読み返しました。当時はイラン国内にトルコ国民も数多く取り残されていましたが、トルコ政府は自国民の救出に 空路ではなく陸路を使ったという記録が残っています。
イラン国内に取り残されたトルコ人たちは、一時は国外に脱出するために空港に集まっていました。
しかし、飛行機に乗れる人数は限られていました。彼らは日本人を優先的に飛行機に乗せて脱出させるために、全員が自分たちは陸路で避難することを決断したのです。
幸いなことに、陸路で避難した500人のトルコ人は全員が無事にトルコにたどり着いています。
テヘランからトルコ国境までは900kmの道のりです。早朝に出発すれば、深夜には国境に着く。
陸続きではない日本よりも、ずっと近いんですよ(笑)
ただし、エルトゥールル号海難事故の恩は、「やってもらったから返さなければいけない借金」のようなものではありません。
すでに両国の間には非常に強固な友情が確立されていますから、貸し借りの問題ではないのです。
今でも日本国民が困難に直面したら、トルコは必ず日本人を助けるための行動を取るでしょう。
ちなみにこの時の「テヘラン邦人救出劇」について、ほとんどのトルコ人は知りません。そのため、この話をトルコ人がすることはほとんどありませんよ。
一方で、トルコ人は今でも1999年にトルコ北西部を襲った大地震の話をしています。地震の直後に日本から2000棟の仮設住宅を贈られたことなど、日本からの援助を決して忘れていません…