私はパトカーや救急車のサイレンを気にしたことがあまりない。

夜中になれば、毎日とは言わないけど、
ドップラー効果で高くなったり低くなったりするサイレンの音が、
どこからともなく聞こえてくる日々が当たり前になっていて、
それに対して
「あ、サイレンが鳴っている」とか、
いちいち気付くこともなくなってしまっている。


多分、大袈裟に言うなら、
「鳥が鳴いている」ぐらいの感覚。


昨日、家でいつも通りツィッターを見ていたら、
サイレンが家の近くで鳴り止んだ。

そこで初めて、
今までサイレンが鳴っていたことを意識したんだよね。

普段、意識すらしないのに、
近くでサイレンが鳴り止むと妙に意識する。

きっと私はサイレンの音が怖い。



そのまま通り過ぎて行って欲しかった。と不謹慎で自分勝手な願いが残る一方で、
自分にとっての悲しかったことや辛かったことを、
思い出して意味も無く、自分の記憶と重ねてしまう。




人は楽しい記憶・嬉しい記憶よりも、
悲しい記憶・辛い記憶の方が記憶に残る。とよく言われる。

それが科学的に証明されているとかは知らないけど、私もそう思う。


記憶が悲しみや辛さだけでいっぱいになったら、人は生きていけない。


悲しいこととか、辛いこととか、
そんなの生きてれば腐る程あるけど、
何かある度に思い出すのは、
決まって幸せな記憶だった。



私の記憶の中には幸せがあって、
それを失うのが怖くて、
もう戻らないのが悲しくて、
辛くて、苦しくなる。

その幸せな記憶があるせいで、
辛い記憶の方が大きく感じてしまうのかもしれないって思うの。


幸せの記憶が大きい分、
悲しみや辛さの重みが増してしまって、当時の幸せを思い出すと耐え切れない。


そう思うと、
嫌な記憶しか残っていなければどれだけ楽なのだろう。と、虚しくなることもあるよ。


だから余計な幸福感なんて嫌になる。

誰とも関わらずに、
思い出なんて出来てしまわぬ様に、
壁を作る。

でもそれも長くは続かなくて、
“今度はきっと違う”と戻ってきてしまう。

また終わりが来ることも、
頭では分かっていながら同じことを繰り返す。



DNAの生存本能は自分勝手すぎる。


人間は生きているだけじゃ生きていけないのに、
それでも生かそうと惨いまでにありがた迷惑なことをする。



今の私にだって働きかけていて、
良くも悪くも私を必要としてくれる人達も出来てしまった。

これが今までになく、
自分にとって大きな存在になってしまった。

もうすでに記憶に刻まれていて、
もし、今後いなくなってしまった後、
自分がどうなるかを想像すると恐ろしくなる。



二人の記念日が終わって、
8月まで大事なスレが沢山ある。


どの日も私にとって特別で大切にしたい。


私たちはすでに記憶の後戻りが出来なくて、
あとは愛を感じるか、傷付くだけ。

それが一日一日に見えてしまう。




正直、恐い。

でも信じていたい。

もう繰り返したくはない。




でもきっと、
楽しいだけの記憶でいっぱいになったら、楽しさや幸せを感じる事も、覚える事も出来なくなっていくんだろうな。



人間って本当に複雑で、
本当に単純な生き物だね。









明日もどうにか生き延びよう。