「濃姫様。もし……信長公がご生前、すでに“誰か”に狙われていたのだとすれば、わしは……“真の敵”がまだ表には出ておらぬように思えてならぬのです」
私の喉の奥が震えた。信長が誰かに狙われていた、それは不思議ではない。戦国の大名、周りは敵だらけ。常に命は狙われておる。でもその誰かが、信頼のおける者であったとしたら……否、そもそもそのような者は存在しないのかもしれない。考えてみれば、信長は周りの誰も心の底からは信じておらなんだかも知れぬ。この私でさえも……。長秀がゆっくりと私を見て重い口を開いた。
「そして、清須会議です」
長秀の声音がさらに沈む。
「秀吉殿は、織田家の後継を“信忠様の遺児・三法師様”に決めさせるため、あらゆる者へ働きかけておりました。もちろん、私の元にも来られました。それ自体は誤りではございませぬ。三法師様は信長公の直系。されど」
「そこで勝家殿と対立したのだな」
「いえ。それよりも……“秀吉殿自身が三法師様の後見となり、権勢を握ることを最初から狙っていた”点こそ、わしには引っかかるのです」
長秀は小さく息をつき、姿勢を正す。
「本能寺の変のあと、秀吉殿は“信長様の嫡流を守る”という大義名分を掲げ、誰よりも早く動きました。だが、その迅速さは“用意していた者にしか出せぬ速度”……そう映ってしまうのです」
部屋の空気が重く沈んだ。障子の向こうで風がひゅう、と鳴り、まるでその場に戦慄を添えるかのようだった。
「――長秀。そなたは、秀吉がこの先どう動くと思うておる?此度のことが秀吉の策略でなかったとしても、三法師が成人するまで大人しく後見を務めるか?三法師を主君と立て、織田を担ぐつもりがあると思うか?」
長秀は、長い沈黙ののち、静かに断言した。
「それは、何とも……。ただ、秀吉殿は……信長公ほどの器量はありませぬ。されど“野心”だけは同じ。いや……時にそれ以上かもしれませぬ」
その言葉に、蘭丸も息を呑んだ。
「そなたは……秀吉が黒幕だと思うか?」
問うと、長秀はまっすぐに私を見据え、静かに首を振った。
「まだ、そう断じるつもりはありません。ただ――」
「ただ?」
「“黒幕”が秀吉殿であったとしても……“それを秀吉殿は必ず隠し通す”。私は、そう思うのです。あの男は、敵よりも味方よりも、自らの欲を裏切らぬ。信長様の仇を討った。それこそが、秀吉殿の何よりの大義。その大義名分を決して手放しませぬ」
長秀ほどの人物が、ここまで慎重に言葉を選びながら“違和感”を語るということは、ただの憶測とは言えない。積み重なった事象の線が、ひとつの影を指しているのだ。
「家康殿は動きましょうか?」
「いえ、あの方は慎重なお方」
「あの者が黒幕、ということはあり得ぬか?」
「ふむ……ないとは申せませぬ。ただ、あの方が信長公に刃を向けるとは思えませぬ。そこまで短慮ではないでしょう。しかし……天下を狙っておるのは確かにございましょうな」
「長秀……そなたは、私がこの真相を追うことを“危うい”と考えるのか?」
「はい。危うい。秀吉殿は今、最も力を伸ばしておられる。そして“濃姫様が生きている”と知れれば、そのお存在そのものが脅威となりましょう。信長様の御台、織田家の権威の象徴として……秀吉殿にとって最大の障壁と成り得る」
その言葉に、背筋へ冷たいものが染み入る。だが同時に、胸の奥から強い決意が湧き上がった。
〈百伍什肆へ続く〉
※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。
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