そうしたらそこに、合戦の様子を探らせていた諜者から道三討ち死にの悲報が入った。
「それは誠か?!」
道三は義龍軍の猛将、林主水に切られ、そこに駆け付けた長井忠左衛門という武将にさらに切り付けられ、首をとられた。道三の首は既に井ノ口町の長良付近にさらされているとの事である。
「なんとしたことよ…」
必ず連れて帰ると私に約束した信長はさすがに唸ったようだ。それに道三が打たれてしまったことに大いなるショックを受けた。あれほど兵法に長けた人がこんなにも簡単に打たれてしまうとは…この時道三は63歳になっていた。戦法は日々移り変わる、道三ほどの人でも年と共にその兵法が時代についていけなくなったのかも知れぬ、という事なのか。
しかしすでに打たれてしまったと言うなら駆け付ける意味もない。このまま突き進んで無駄に我が兵を打たせるわけにもいかない。知らせを受けた信長はすぐに全軍に引き上げの命を下し、自分は最後の船で川を渡った。むろん敵は追ってきたが、伏せておいた鉄砲隊が一斉に打つとそれ以上追って来る事はなかった。
道三の首は3日ほどさらされていたが、小牧源太道家が見るに忍びなく思ってその首をコッソリ持ち帰り長良河野に葬ってねんごろに弔った。この事は義龍の耳にも入ったが、これについては何も言わなかった。自分で打ったものの、元は父と思っていた男である、長い間その首を晒しておくには忍びないものもあったのかもしれない。
清州城に戻った信長は肩を落として
「すまぬ、間に合わなかった…」
と、私に告げた。これも戦国の世の定め、致し方あるまい。すぐにも父の仇を打つために弔い合戦に行って欲しいという思いもあったが、多分今はその時ではない。この時の信長の全兵力をもってしても美濃に討ち入るだけの力はなかっただろう。信長自身、それはよく分かっていたし、私にだってそれくらいは理解できる。
「舅殿はわしに美濃を譲ると認(したた)められた。あの会見の日から蝮殿がそう思われた事をわしは感じ取っていた。機が熟したなら必ず義龍を打ち、美濃を我が手中にするぞ。その時までしばし待て。美濃を取ったら必ずそちを舅殿の墓参りに連れて行くからな」
「お待ち申し上げております」
道三という人物がいたから、信長は天下統一の基盤を築いたと言っても過言ではない。
ところがここで義龍に反旗を翻す一族が出た。土岐十三流の筆頭家系である明智光安率いる一族である。明智城にて890人近くが籠城していた。そしてその中には義龍についたはずの明智光秀もいたのだ。当主である光秀の叔父は最初から義弟である道三についてはいたが、中立の立場を貫いていた。が、ここに至って光安は考えを改めた。義龍は実際のところ頼芸公のお子かもしれない、さりとてそれまで育てて貰った父親の首を撥ねるとは非道としか思えない。しかも頼芸公の子供は他にもいる、考えてみれば義龍が正当な跡継ぎとも言えない。道三とは生前、深い親交を交わし、何かと力も貸してもらった、ここで義龍に下しては義が立たぬ、民も長い物に巻かれたと思うであろう。土岐宗家に対しても道三に対しても戦って果てた方が武が成り立つというものだと思い至った。そして900人近い一族の者たちがこの考えに賛同して城に残ったのだ。そうして光安は義龍に宣戦布告した。義龍の重臣たちは光安を説得して事を穏便に収めようと言う考えであったが、義龍はそれには賛同しなかった。義龍が否と言えば他の者はそれに従うしかない、そうして長井隼人佐(ながいはやとのすけ)がこの年の9月18日、3700人の兵を連れて稲葉山城を出立した。明智の兵の4倍以上の人数を連れているのだから、明智には勝ち目がない。あっという間に明智は劣勢に追い込まれ、光安は腹を切る前に光秀を呼び、2人の息子・秀光と光忠を連れて逃げ明智の血を受け継ぐように命じた。光安は明智の血を絶やしたくなかったのだ。光秀は光安の命に従った。今はそれが最善であると思えた。それに力を蓄えていつか明智家を元に戻すと強く思った。光秀はそのまま従兄弟の秀光、光忠と10人ほどの家族を引連れて裏山伝いに城を抜け出した。しばらく進んで振り返った光秀の目には燃え落ちて行く明智城の姿が赤々と映った。あの炎の中で光安たちが腹を切った姿を想像して涙が溢れた。
弘治2年(1556年)9月26日、明智光安53歳、申の刻(午後4時)明智城、落城。
〈肆什弐へ続く〉
※こちらのお話しは史実に沿ってはいますが、不明な部分、定かでないところは多分に作者の創作(フィクション)が含まれますので、ご留意の上ご拝読いただけますようお願いします。
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