今週の記事は
『誓約することは果たせ』
書こうと思いましたが、年末にすでにツッコミ記事を
書いておりました。(←最近このケース多いな。笑)
改めて読んでいただけると嬉しいです。
詳しい感想はこちらをご覧ください。
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昨日の記事であらためて感じた事を追記します。
こんな気持ちになりました。
それは、この挿絵で簡単に説明できるような内容です。(笑)
↓
こんな感じで言われてる気がしませんか?
12-13節は脅迫の嵐です。しかもいつも言っている
人の持っている信仰心を揺り動かし、罪悪感を
駆り立てるような仕方で。
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『「バプテスマ以降,エホバとの関係は強まっているだろうか。心をこめて神に仕え続けているだろうか。(コロ 3:23)祈りをささげ,聖書を読み,集会に出席し,できる限り宣教を行なっているだろうか。それとも,こうした点で幾らか低調になっているだろうか」。
…
わたしたちはイエスから,「最初に抱いていた愛を離れた」と言われたくはありません。』
わたしたちはイエスから,「最初に抱いていた愛を離れた」と言われたくはありません。』
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イエスさまから、神さまから愛されたいなら、集会に出席しなさい、
奉仕に出なさい…手を緩めるんじゃねーぞ!
神さまの愛ってそんなもんで決まるのでしょうか…
善人にも悪人にも太陽の光を注ぎ、雨を降らせるのが神の愛
なのではないでしょうか?だから私たちはとてもとても近づく
ことなんてできないし、神々しく、敬えるのではないですか?
5.83
おかげで私は今やこんな気分ですよ。
↓
この挿絵を見ながら13節の最初の部分を読んでみましょう。
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献身の誓いという神への約束を取り消すことはできません。エホバへの奉仕やクリスチャンの生き方が嫌になったからといって,「自分は本当は献身などしていなかった。バプテスマは無効だ」と主張することはできないのです。
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言い方の違いだけです。
明るく、親切で、丁寧に脅迫してくれているだけです。(笑)
あと、興味深かったのは、既に何名かの方が取り上げて
くださっていましたが、冒頭の3節の部分でしたね。
「古代の人々に対し,『誓いをして履行しないようなことがあってはならず,あなたはエホバに対する自分の誓約を果たさねばならない』と言われたことをあなた方は聞きました」。―マタ 5:33。
この聖句をもって、『誓約することは果たせ』という記事が
展開されるわけですが、これは完全に文脈を無視した
聖句の切り取り、乱用であったこと。
続く聖句はこの通り。
34 しかし,わたしはあなた方に言いますが,いっさい誓ってはなりません+。天にかけても,なぜならそれは神のみ座+だからです。35 地にかけても,なぜならそれは[神]の足台+だからです。エルサレムにかけても,なぜならそれは大いなる王の都市+だからです。36 また,あなたの頭にかけて誓ってもなりません。なぜなら,あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからです。37 ただ,あなた方の“はい”という言葉は,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしなさい+。これを越えた事柄は邪悪な者から*出るのです+。
文脈を読みましょう、とはよく言ったものですね。
統治鯛が聖書を都合の良いように利用していることの
なによりの証明ですよね。一切、この文脈には触れて
いないのですから。意図的としかいえないよね。
エフタの例もそう。
約束を果たした、とか、独身女性の慰めみたいな適用でなく、
『神の前で軽率な誓いをしてしまった愚かな男の物語』
なんですよ、あの話は。そう考えると、このイエスの言葉も
的を得ているものになっていますよね。辻褄があっているんです。
辻褄が合わないのは、ものみの塔の主張であることが、
また今週の記事でも明らかになったとさ。
あ~あ…
上に貼りつけた2つのイラスト使って、
『もう私は霊的にこのような心境ですので、少し休みます。』
って言おうかな…。
