世に棲む日日(二)司馬遼太郎
文春文庫 2003年
異国と戦い攘夷を断行するとすれば、自ら異国に赴き、これを視察してその実情をその目で見るしかないと信じた松陰吉田寅次郎は、再度来航したペリー艦隊に乗船してアメリカに密航することを思い立ち、弟子の金子重之助と共に下田に行き、漁船を盗んで必死の思いで黒船まで漕ぎ寄せ乗船することに成功はするが、締結した条約の中で日本の国法を遵守することを約したことでペリーによって渡航を拒否され、船を下ろされる。
ある意味で純で、人を疑うことのない松陰はそのまま庄屋に自首して出て、江戸に送られ、伝馬町の牢に繋がれるが、牢内で自身の攘夷論と、それによって海外密航を企てたことを縷々として語り、牢中の囚人たちから尊敬の念を集める。
開国騒ぎで、一書生の処罰どころではない幕府は松陰と重之助を萩送りにし、長州藩にその仕置きを任せることにした。
前途ある若者に甘い体質を藩風に持つ長州では、2人はそれぞれ武士用の牢と、それ以下の身分の牢に入れられるが、重の之助は牢死する。
松陰は牢中の囚人たちの才あるものを師として、囚人たちにさまざまなことをまなばせ、中でも冨永有隣という男をその後出獄させるのに尽力し、やがて自身の塾(松下村塾)に教授として迎えた。
松下村塾は寅次郎の叔父の開いた私塾の名前を受け継いだ物で、実家預けの禁固刑に服していた松陰は、自室から出ることが許されず、その狭い部屋だけが塾であったが、のちに入塾者が増えると、塾生たちは売り出された古屋を購入して解体し、塾舎を建て増ししてしまった。
この松下村塾からはのちの明治の元勲たちが続々と誕生するが、その龍虎と呼ばれたのが、気に入られて松陰の妹を娶り義弟となった久坂玄瑞(のち禁門の変に破れ自刃)と、彼に紹介された高杉晋作であった。
晋作は藩の中級吏官の家の唯一の男子で、幼い頃から病弱だったこともあり、松陰以上に甘やかされて育ったが、父は彼を平均的な普通人たれと久坂玄瑞は育てたが、晋作はその内なる天才と狂気を何にぶつけていいかを模索する青春を送り、やがてそれは革命家として昇華するのであるが、若き日には剣士を目指したり、結婚後は操船術を学ぼうとしたらしたが、どれも意に染まず中途半端になった。しかし、師としての松陰がことごとく久坂と対比し、これを持ち上げことに反発し、共に切磋琢磨して行くことになる。(その後江戸に遊学するが、その時には師の松陰は再び獄中に囚われの身となるが、彼のために奔走する)
おかしなことに、師の松陰は誓いを立て、生涯女犯に及ばなかったが、弟子の晋作は好色で世子(藩主の跡取り息子)の小姓に取り立てられ、お目見えの挨拶にまかり越した時、世子から「この世で何を一番好むか?」と直接問いかけられた時「おんな(それも遊里の)でございます」と答えている。
そんな塾生たちに囲まれながら、常に国家の行く末を考える松陰は、実現しなかったが、老中間部詮勝の暗殺計画を企て、これにより再び藩の獄に繋がれることとなったが、福井藩士梅田雲浜との交友を咎められ、大老井伊直弼の安政の大獄に連座して江戸に送られる。最初自分の運命について軽く考えていた松陰は、その持ち前の明るさと人を疑うことを知らない性から、過去のアメリカ密航計画から、老中暗殺計画までの自ら正しいと信じた持論を吟味役の前で語り、遂に斬首刑に処される。ここに討幕の精神的支柱となった理論家はその理論の結実を見ることなく刑を受ける。
師の松陰が理論の人であったのに対し、あくまで行動の人だった高杉晋作は、その頃長州藩の藩論をまとめ上げていた、開国によって艦船を増やし、積極策によって国力を充実させ、然るのちに五大州を服属されるという「航海遠略策」を指導する家老長井雅楽の暗殺を目論むが、この情報を突き止めた桂小五郎により、やはり家老の周布政之助から、幕府の上海視察渡航に参加させることを条件にこれを取り止める。
上海に渡った晋作は、改めて産業革命を成し遂げた欧米諸国の力をまざまざと見ると共に、アヘン戦争で屈辱し、領土を割譲し、瀕死の状態にある清国の姿にも触れ、ここにあくまで攘夷論を振りかざして、国内に戦争を起こし、それを起爆剤に討幕に機運を起こすことに自分の人生を賭けることに熱中して行く。
私のこれまでの幕末史の認識は、どちらかというと佐幕派的視野に立っていたので革命勢力としての長州の在り方というものがよくわからずにいたが、それは単に関ヶ原の恨みというに留まらず、日本の西の端で、九州諸藩と共に海外情報が入りやすいという地の利的な要因があったことや、若い藩士に甘く育てるという家風にもあったことを初めて知りました。
主人公たる吉田松蔭は、よく歩きよく考えた人でしたが、作者の筆によると、その行動は常にチャンスを逸するものであったことになっているが、松陰は最期まで明るさと希望を失わず、運命としての刑死も甘んじて受け入れるが、次なる主人公の高杉晋作は自分が狂的な革命家たらんとして、師の松陰の思想を過激な行動にと進化させて行く。
松陰と晋作を取り巻く人々には維新後に国の元勲となった人々も多いが、同時に維新を見ることなく佐幕派との闘いに斃れた人も多い。松陰の親友である肥後の宮部鼎蔵や、松田重助、松下村塾の弟子である吉田稔麿や、北添吉摩などは数年後に新選組による池田屋襲撃によって落命しているし、晋作の盟友の久坂玄瑞は禁門の変を起こし敗退して自刃する。
新選組や守護職会津藩から見た立場では彼らこそが国家転覆を狙うテロリストたちであるが、彼らが非業の死を遂げなければ、新政府においてどれだけのポストに就いたかわからない。
また日本史において名高い吉田松陰であるが、彼自身はあくまで思想家であって、遺した実績というものは弟子を小さな私塾で育てたことしかないということに愕然とした。
