性懲りもなく、1980年の予備校寮、叡六荘の思い出を書く。
20人近い男たちが入っていた寮は、どうしても派閥というか、女子中学生の仲良しグループみたいなものが複数できる。
私は2階の階段を上がった正面の部屋だったから、どうしても2階グループというになった。
隣はオギノと、静岡県清水から来たヒラオカ、向かいは階段だったがその隣は富山の高岡のタカギ、その隣が滋賀県のサトウなどという布陣で、一番奥の岡山から来たキシモトや、その向かいの部屋の和歌山のツカサなどと特に仲がよくなった(キシモトは結局二浪して、私の同じ学部の後輩となった)
カラス他愛媛の松山の同じ高校から来た3人組は1階だったが、こいつらはなぜか2階グループに入っていた。
今では在京テレビ局の番組でも吉本の芸人の姿を見ない日はないが、漫才ブームに沸いたこの1980年以前には関東以北では新喜劇といえば藤山寛美の松竹新喜劇のことであり、調べてみると、伝説のテレビバラエティ「ヤングおーおー」は北海道でも放映されていたみたいではあるが、私は一度も見たことがないし、そんな番組があることも知らなかった。
中学生の時に鶴光のオールナイトニッポンを聴いていたくらいしか吉本のお笑いに触れる機会がなかった。
つまり寮に入った1980年の段階で明石家さんまを知らなかったのです。
それを聞いた前述のサトウが、「さんまを知らない人間なんてこの世の中にあるの⁉️」と驚いていて、私は逆にそのローカルが全てという関西独特の視線に驚いたものです。
そんなこんなで暑い夏を迎えようとしていたある日、高岡のタカギが私を京都花月に誘ってくれました。吉本というものをまだよく理解していなかった私ですが、小学生の頃から古典落語(上方落語)が好きだったので、当時新京極の中にあった京都花月劇場にタカギと2人で行きました。
その寮ではテレビ禁止だったものですから、私は空前のMANZAIブームも、「笑っていいとも」の開始も、初代「タイガーマスク」の登場も知らずに世間から遅れて生きていました。
それでも繰り広げられる漫才と落語は面白かったです。「オール阪神・巨人」「ザ・ぼんち」「のりお・よしお」らが漫才を披露し、後に事故死(本当は自殺)する林家小染の落語を聴きました。
しかしどうも新喜劇の笑いには付いて行けなかったので、タカギを促して早々に退館しました。
花月に行ったのはその時が一回きりでしたが、大学在学中に笑福亭松鶴の高座を見ました。
これはたまたま一人で河原町をぶらついていた時に、新京極に抜ける辻の角あたりで、寄席居酒屋が新規オープンするということで、笑福亭門下の若い衆が、「今日はオープン記念で無料です。松鶴師匠も出ますよ‼️」と呼び込みしていたのに誘われて入ったもので、松鶴師匠の演目は「平の陰」でした。
それからこれはいつ、どこでだったかは忘れてしまいましたが、笑福亭一門と並び立つ一方の雄を率いる桂米朝師匠の高座も見る機会に恵まれました。
子どもの頃からの語り芸人(中学の修学旅行にて)
左上 キシモト左下タカギ、右上カオル、右下カラス(産大に行ったカラス以外二浪)
そのタカギは、結局夢破れて故郷高岡に戻りましたが、その1〜2年後、まだ私の大学在学中に私の下宿に絵葉書をくれ、可愛い嫁さんをもらったと報告して来ました。
そして4回生の時、たまたまキャンパス内で見つけたキシモトを下宿に誘ってタカギの若奥さんの写真を見せました。彼は知らなかったようで驚いていました。
各人各様の青春でした。

