11月28日、土曜日。孝一郎は約束の午後8時にさやかのマンションを三度訪れた。
前日の金曜日の夜、下宿近くの上七軒の歌舞練場の前の公衆電話からさやかに電話して、当日はステーキを焼く用意をしておくからと言われていたので、赤ワインを1本仕入れて行った。
ちなみに歌舞練場とは、京都の花街の芸妓・舞子たちの踊りや歌、楽器などの技芸を磨くための劇場で、この上七軒歌舞練場では毎年春に「北野をどり」が開催され、また夏場にはビアガーデンも開かれ、芸妓や舞妓が浴衣姿で来客をもてなすことで人気があり、これには孝一郎もさやかと行ったことがあった。
街全体が祇園や宮川町のような昔風情の京町家が並び、孝一郎の下宿も、かつては材木問屋だった家の庭の中に建てられた「離れ」を改築して、学生4人が住めるようにして貸していたところであり、最古参の孝一郎は六畳間の和室にカーペットを敷いてそこにパイプベッドを置いて暮らしていた。京都古来の畳は京間といって、現在では全国的に使われている江戸間の畳に比べて縁の分だけ広いので、同じ西園寺大の学生でもアパート暮らしの友人が訪ねてきて、自分と同じ六畳と聞いても、その広さの違いに驚くほどだった。もちろん風呂無し、トイレひとつ、電話は母屋の取次ぎだったが、受電のみでかける時には公衆電話を使うよう言われていた。原則女子禁制であるが、事前に大家に届けを出しておけば認められる場合もあり、さやかも一度、ここで開かれたサークルのこぢんまりとした飲み会に参加したことがあった。
訪れた孝一郎をさやかは満面の笑みで迎えた。
「早く入って、寒かったでしょう?すぐにお食事の支度をするわ」
渡されたワインのボトルを抱きしめてさやかはそう言った。
「さやかさんこそ、仕事で疲れて帰ってきたばかりでしょう。なんだか申し訳ないな」
「何言ってるのよ、コートを脱いでここに座って、今お肉を焼くわね。今キムチでも出すからまずはビールで乾杯ね!」
彼女はそう言うと冷蔵庫からキムチが入ったタッパーと、大瓶のビールを取り出して、彼女もテーブルに着いてビールを二つのグラスに注いだ。
「アタシたちが推理したゴールに乾杯!」
二つのグラスが合わされ透明な音を立てた」
「まぁ俺たちの推理と言ったって、今のところ何ひとつ証拠はない。それを見つけてもらうのは御堂さんたち警察の仕事だ。これには素人探偵は手の出しようがない」
「それはわかっているわ。だから明日二人に聞かせるのが楽しみなのよ」
そうしてさやかはキッチンに立ち、昨日から解凍して香辛料を染み込ませておいたステーキ肉を焼き始めた。ブランデーでフランベしたので大きな炎が立ち上る。
「サラダは今朝のうちに作って冷蔵庫で冷やして置いたのよ」
小さなガラスの器に盛られたサラダも並ぶ。
二人分の肉が焼き上がったところでさやかは孝一郎と向かい合って座り、孝一郎がワインのコルクを抜いた。ルビー色の煌めきがワイングラスの中で踊った。
「うわぁさやかさん美味しいよ!」
「ほんま、そう言ってもらえると嬉しいわ。なんや新婚さんになった気分やわ!」
「まったくだな」
「ねえ、孝一郎君」
「うん?」
孝一郎は牛肉を頬張ったまま応えて、慌ててワインでそれを飲み込んだ。
「改まって言うようやけど、アナタ卒業してもあの下宿に住まうつもり?アメリカへの派遣は一年後くらいの算段になるって言うてたわね?
その間だけでもここで一緒に暮らさない?」
「同棲ですか?」
「なによ不満なの?」
「いや、そうではない。ただ、卒業してしまえばもう学生ではなく、身分は武徳会職員になるって先日言ったやろ?稽古は今まで以上に厳しくなるし、武徳会としての仕事も増える。それこそ市内の警察署や大学への派遣稽古なんかもしなくちゃならなくなる。アメリカに行ったらそれが本業になるんやからね。ここにいて、昼間は主夫の仕事をしてさやかさんを待つなんてとてもできないよ」
「ううん、それは当然よ。アタシは全然構へんし。だいたい仮にこの先孝一郎君じゃない男性と結婚したって共働きの間はそういう生活になるんやろし……、アレやったら卒業までここでお試し期間を設けてもいいと思うの。どうかしら?」
「う〜ん、魅力的な話ではあるな。せやけど大家にはアメリカ派遣まであそこに今までと同じ家賃で置かせてもらうことに同意してもろてるし、そのことは武徳会にも届けを出している。
大家の爺さん昔気質の人で、戦前に武徳会の剣道で五段を取ってる人なんだ。それもあってこれまで良くしてくれていたし、俺のアメリカ行きを喜んでくれた。それに郷里の両親にどう説明するかだよなぁ?」
「お父様とお母様、アタシが3回生の夏にマユミと一緒に夏に北海道旅行に行った時、迫館のご実家でお目にかかったわね。気に入ってくれた思たんやけどなぁ、自惚れかなぁ?」
「まぁまだ日はある。真剣に考えておきましょう!」
「ほんまに!約束してね」
食事が終わってからは二人並んでキッチンで洗い物をして、それからコーヒーを沸かしテーブルに戻って、再度推理の組み立てを確認し合った。
気がつくと時刻は10時を過ぎていた。
「孝一郎君、下着とパジャマは買うといた。コップと歯ブラシは洗面台に出ている。アナタのは青い方ね!それから電気シェーバー派やて前に聴いたから、安いやつだけどこれも買うて置いたわ。これで草森さんにもう嫌味言われることもあらへんし」
「なんかもう既成事実が出来上がって行く感じだなぁ⁉️」
孝一郎はそう言って笑った。
そして二人は交互に風呂を使い、その後また熱い悦びの夜を迎えた。
翌日、約束通り午前10時に二人揃って東山の川端警察署を訪れた。
『南禅寺水路閣女子学生殺人事件合同捜査本部』が置かれた署内は、ただならぬ喧騒に満ちていた感じがしたが、話が通じていたとみえて、受付の婦人警官に名乗るとすぐにどこかに電話をしてくれ、まもなく草森刑事が現れ、二人を取調室の一つに案内した。
彼らが着席するとまもなく御堂刑事もやって来た。
「おはようございます。お約束とはいえ午前中からすんまへんな」
「いえ
アタシも今日は休みですし、事件の方が気になって寝られませんもの」
さやかはそう言った。それを聞いた草森は心の中で
『その割にお二人とも今日はさっぱりとした明るい顔色をされてますな』
と、言いかけたが、また御堂にたしなめられると思って口をつぐんだ。
「今日は俺たちが考えた推理を聴いてもらいに来たんですが、その前に現在の事件の状況をお聞かせ願える範囲で聴かせてもらいたいんですけど」
孝一郎がそういうと、椅子に座った御堂はテーブルの上の灰皿を引き寄せ、煙草に火を付けて言った。
「それがなぁ、先日の時点では、これで一気呵成に行くと思たんやけど、やっぱり蟻の歩みでしてなぁ、まずはワシ直々に母親から事情聴取したんやけど、母親も相手の名前も聞かされてなかったんです。せやけど娘から『ヒロくん』いう呼び名だけは聞いたことがあるいうことで、先日から阪神医大に協力してもろて、また学生の割り出し作業をしております。名前にヒロが付く弘やとか宏やとか裕とか博幸や、姓の方も広島やとか広田とか。
けどこれが結構な数になる上、例の丹羽君からお借りした写真、あれの林崎の部分を拡大して捜査員に持たせて、そのヒロくんの可能性のある学生の周辺人物に当たらせとるんですが、これもまだ目ぼしい情報はありまへん。まぁ警察の捜査いうたら千の無駄の中から1の事実を拾い出すようなもんですから、嘆いても仕方ないことですけどな。
そもそも両親も思春期の娘のことでもあり、その男のことを深く突き止めようともせなんだようやし、娘から医大生やということだけを聞いて安心していたようですわ」
「ヒロくんとの馴れ初めなんかはわからないんですか?」
孝一郎がこう質問して、御堂は煙草を灰皿に押し潰した。
「バイト先で知り合うたと希は言っていたらしいですな」
「バイト先といいますと?」
「三石希は、平安神宮で巫女のバイトをしていたらしいんですわ。ま、あの手のバイト巫女は神さんのことは何も知らんでもお守りやおみくじを売っとるだけやし、短大からも近いんで両親も認めてたいいます。
今年の春になってからその社務所に現れたのがその男で、白衣緋袴の巫女装束を見て一目惚れされたと希は母親に言うてたらしい。
まぁ希も高校を出たばかりの小娘や。さやかさんのような大人の女性とは違います。男を見抜く目ぇも備わっても養ってもおらんかったんでしょうなぁ気の毒に。
こんなところが現在の捜査状況ですわ。
ほならお二人の推理いうのんを聴かせてもらいましょか、ああその前に、お二人方始め、西園寺大観光文化研究会の皆さんの容疑は晴れましたからご安心ください」
「アタシたちも容疑者やったんですか?」
さやかが驚きの声を上げた。
「第一発見者が、容疑者や参考人になるのはテレビのサスペンスドラマでも一緒です。
まぁ原則論みたいなもんやと思って気を悪くせんといてください。なんといっても当初の容疑者やった林崎との接点は観文研しかあらへんかったんやから……」
「わかりました。アタシはそもそも林崎なんていう後輩がおったことも知らんかったわけですし。
さて、それではアタシたちの考えを述べさせていただきます。これは遺体を発見した当日、忘れていたことでもあったんですけど」
「ほう、あとから思い出す話はよくあることです。さやかはんの落ち度やあらへん」
「ありがとうございます。
あの日、林崎、ううんヒロくん、ああ、ややこしい、やはり林崎で統一しますね。
彼はなぜか二人分のコートを紅葉の樹の下で振り払っていましたし、こちらを見た時になぜか目を盛んに瞬いていました。
最初は西陽を真っ向から受けて眩しいのかと思っていたのですが、あれはコンタクトレンズを落としたんと違いますやろか?」
「ほぅコンタクトレンズをね?」
「はい、あのあと孝一郎君から聞いたのですが、被害者の首の扼痕、犯人が首を絞めた指の痕は首に向かって下向きに付いていたそうです。
ということは、犯人は背後から背の低い被害者の首を絞めて殺害したのでしょう。その時に、不意を襲われた被害者は思わず両手を上げて背後にいる犯人の顔を掻きむしったのではないでしょうか?被害者は毛糸の手袋を着けていましたから、犯人の顔に傷を負わさることはできませんでしたが、指が目に当たった衝撃で、コンタクトレンズが落ちたのではないかと想像したのです。
重度近視者でコンタクトレンズ使用者はそれがなければ、適合した眼鏡がなければ何もみえないのと一緒です。
慌てて夕暮れ近いもみじの林の中を探したって、見つけることなんてできっこないはずです。
ましてやたった今、人1人殺したばかりなんですから。そのため万が一自分や被害者のコートにそれが付いていて、遺体が発見された時にそれが証拠として見つかることを恐れて、遺体から少し離れた場所で、コートを振るって、もしかしたらそこに付いているかもしれないレンズを改めて地面に落としたのじゃないかと思うんです。
前に言いました通り、もしあのグリグリ眼鏡
に度が入っていない伊達メガネだとしたら、片目だけコンタクト無しでは視力のバランスが崩れ、林崎はほぼ何も見えていないも同然だったと思います。仮にそれが孝一郎君の知る林崎やったとしても、彼には孝一郎君を判断することはできなかったはずです」
「ましてや貴女たちがキスをして顔を隠すようにしていたなら尚更ですな。それにしても孝一郎君もさやかはんもあの時点で被害者の扼痕やら
手袋やらをよう観察しておりましたなぁ!並の刑事より優秀です。それにコンタクトレンズ店販売員のさやかはんの証言、えらい参考になりました。ほんでわれわれは何をしたらええんでしょう?」
「はい、幸い火曜日からこっち、穏やかな秋晴れの日が続き、雨も降っていませんし、風もありません。現場のもみじの樹を中心に丹念に地面を探して落ちているコンタクトレンズを回収できたら、ひょっとして持ち主を特定する方法があるかもしれないのです」
続く