臓腑(はらわた)の流儀 Callus Nnukles カルス・ナックル その① | われは河の子

われは河の子

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What a rude man you are !
「アンタって、何て無礼な男なの!」
 彼女、ナンシーチャンに初めて言われたセリフがそれだった。

 1989年4月3日月曜日、俺はフィラデルフィア国際空港に降り立ち、アメリカの土を踏んだ。
 とはいえ、日本から当地への直行便は無く、羽田からボストンで一度乗り換えをしたわけであったが、ボストンでは好天だったのに、ボーディングブリッジが接続されるまでの間、飛行機の窓から見えるのは霧にもゃったようなフィラデルフィアの街並みと窓を叩く雨であった。
 俺の名は水島孝一郎。今日からこのフィラデルフィア市警の武道マスターとして指導に当たることになっている。
 出迎えが来ているはずである。ターンテーブルに荷物が出てくるのに40分も待たされてからようやくキャリーケースを転がしながら出口を探すと、ガラス扉の向こうの円柱にもたれかかった2人の刑事らしい男たちが見えた。
 手荷物受け取り場から外のエリアに出ると、スタジャンを着てキャップを被った小柄な白人の男が!どこからか寄って来て俺の右背後に付いた。
 同じ飛行機に乗ってボストンからやって来た客には見えなかった。
 その瞬間、男の左手が俺の右の尻ポケットに伸びて、先ほど受け取ってそのままジーンズのポケットに突っ込んでおいたパスポートと財布が抜き取られようとしているのを察知した俺は、後ろ手で男の左手首を掴むと右方向に反転して、そのまま男の手首を捻り上げた。自慢じゃないが、俺の握力は100キロを超えている。
 男は悲鳴を上げて掌を開いたので幸いにパスポートと財布は無事にポケットに戻った。
ガッデムチクショウ!」
と男は叫ぶと、左腕を捻じ曲げられたまま、空いている右手をスタジャンのポケットに突っ込み、飛び出しナイフを取り出すと、それを下向きにしたまま刃を飛び出させた。
 その時になって柱にもたれていた刑事らしい男たちが異変に気づいて駆け寄ろうとしていた。
「止めろレフティ!」
 しかし俺は構わず、そのまま右足をレフティと呼ばれた男の左足に河津掛けに捉えると、そのまま掛け倒した。彼の左手は後ろ手にロックされたままだったので、床に激しく倒れた衝撃で鈍い音がして肩の関節が外れたのがわかった。同時に肘も数ヶ月は使いものになるまい。
 俺は立ち上がりながらレフティのジーンズのベルトを掴んで身体をひっくり返し、右膝で彼を制圧しながらまだナイフを持っていた右手も後ろ手に捻じ上げた。そこにようやく2人の男が駆けつけた。

「コーイチロー・ミズシマだな?」
「ああ、それにしてもいきなりの歓迎ぶりだな⁉︎」
「コイツはレフティ(左利き)・ピートっていうスリのケチな野郎さ。しばらく街中で見かけないと思っていたら、ショバを空港に移したと見える。」
 大柄で年かさの刑事はレフティに手錠をかけて立ち上がらせると、
「お前も相手が悪かったな!」とささやくように耳打ちした。その間相棒の若い黒人の刑事がハンディトーキーでどこかに連絡していた。おそらく空港詰めの警備員か警察に連絡を取って、レフティを引き渡すのだろう。しばらくすると2人の制服警官が駆けて来て、事情を聴き、そのまま彼を連行して行った。
「正当防衛にはなるんだろうな?」
 俺が訊くと、年配の方が
「当然だ。向こうが先に武器を出して、こっちは素手だったんだからな。それにしても見事なもんだったな!これは力強い助っ人が来てくれたものだ」
 彼はそう言うと、
「俺はフィラデルフィア市警のロバート(ボブ)・マッキンタイア刑事。こっちは相棒のトーマス・(トルネード)ブキャナン刑事だ。
 フィラデルフィアにようこそ!」
 そうして右手を差し出した。
 しかし俺は彼の右手を握らず、両手を胸の前で合掌して東洋風のお辞儀をした。
“I don't have the habit ob shaking hands“
「俺に握手の習慣は無い」
「何だそれは?」
「知らない土地でまだよく知らない相手に利き手を預けるほど俺は自信家ではない」
「ほう、日本の武道家というのはそんなものか?」
「これは日本で人気のあるコミックヒーローのセリフだ」
「どんなコミックヒーローなんだ?」
「彼はスナイパーだ」
「タイトルを教えてくれ」
 ブキャナン刑事が口を挟んだ。まだ30歳前くらいだろう、若い分日本のマンガに興味があるらしい。
 「GOLGO 13」
 俺はそう答えた。
「まぁ堅苦しい挨拶は抜きだ。早速オフィスと道場を見せよう。今日は顔出しだけで、稽古は明日からでいいだろう。それが終わったら、お前の下宿に連れて行く」
「そこまで手配してくれるとは聞いていたがありがたい。どんな所なんだ?」
 署からほど近いチャイナタウンにあるレストランの2階だ。多少音は響くかもしれんが我慢してくれ」
「レストラン、中華料理か?」
「そうだ。こういう字を書く」
マッキンタイア刑事はそう言うとコートのポケットから一枚のメモを取り出して渡してくれた。「蓬泉楼」という店名とアドレスが書いてあった。

「店主は中国人の老人で、部屋貸しを快く了承してくれた。
 この店は俺たちもよく利用するんだ。炒飯のボックスランチが安くて美味い。店にはコックの男とウェイトレスの女性が何人かいる」
「そこの大学生の娘は美人だぞ」
ブキャナン刑事がまた口を挟んだ。
「やっぱり東洋人同士の方がストレスは少ないだろうと思ってな」
「気遣いはありがたいが、日本人と中国人は違う」
「それはナンシーに会ってから言うことだな」
ブキャナンはそう鼻で笑った。

 それでワシントンスクエアに近いフィラデルフィア市警に一旦顔を出して道着などを置いた後で、徒歩数分のところにあるチャイナタウンの鮮やかな楼門を潜ってこの店に着き、オーナーの張大人チャンダーレンこと張周明氏と、調理人の王伯竜に会い挨拶をしたところに大人の孫娘のナンシーが2階から降りて来て、
「ハイ!コーイチロー、私はナンシー。よろしくね」
 そう言って手を差し伸べたのだが、私がそれに応えず前述の礼だけで済ませたもので、彼女の冒頭のセリフとなったわけである。

「まぁナンシー、そうとんがるな!君たち中国人だって握手は自分で両手を握り合うじゃないか?まったく東洋人の風習は俺たちにはちょっと理解できないが、何も無理してこっちの文化に染まる必要もあるまい。君たちの方がはるかに長い歴史を誇っているのだからな」
 同行して来たマッキンタイア刑事がそうとりなしてくれたのでその場は収まったが、なぜかその言葉を聞いたナンシーは眉根をしかめて納得したような表情を浮かべた。なかなか気の強い女の子だ。

 ナンシーは名門コロンビア大学に通う二十歳の女子学生ということで、経営学を専攻しているという。将来はこの店のオーナーを継ぐのかもしれない。
 肩まで伸びたストレートの黒髪はいかにも東洋人だが、不思議なことに瞳の色が薄い。黒い眼なのだが、その色彩が淡く見えるのだ。
 それがどこか儚げな印象を感じさせたので、いきなり無礼者扱いをされた気の強さに俺も少々呑まれてしまったが、よく見るとスレンダーで、脚は長く、同年代のアメリカ人女性にも引けを取らないスタイルと美貌であった。こんな娘とひとつ屋根の下で暮らせるのならまんざらでもない待遇だと思った。
 もっとも、市警の武道教官に下宿を提供することで、あわよくば店の用心棒にもなってもらいたいという張大人の思惑は、2階の部屋を案内してくれたナンシーによって明かされたのではあったのだけれど。

 俺がなぜゆえにこんな異邦の大都市の警察署で武道の指導をすることになったのか?
それは俺が京都の西園寺大学に在学中から半ば定められていた流れだったのだ。

 中学時代から柔道を始め、高校では初段の黒帯を取得した俺は高校卒後後に、京都で浪人、
予備校生となったことで、武徳会の存在を知った。
 大日本武徳会は古く明治28年に設立された団体で、当時の富国強兵政策の一端を担うと同時に、欧風化により廃れつつあった江戸期までの古武道の継承、振興、教育、顕彰を目的に活動しており、太平洋戦争の勃発後は徴兵制度の裏支えにもなり、支部は全都道府県に広がるとともに、政府の外郭団体ともなり、幾多の武道家を輩出したが、1945年の敗戦後は、GHQから軍国主義的であると指摘され、翌1946年11月9日に強制解散させられ、多くの関係者が公職追放されたという歴史を持っていた。
 しかし、その後再建運動が起こって1954年に文部省に対して財団法人としての再建の申請を出すが、全日本剣道連盟・全日本柔道連盟・全日本弓道連盟の反対に遭い、同種の全国団体が既に民主的に確立、運営されていることから、更なる組織の設立は武道界に混乱を招くいう理由で法人化は却下され、一任意団体としての活動を余儀なくされていた。
 かつては剣術や撃剣を併せて剣道という呼称で統一し、柔術を柔道という名前で周知させた大日本武徳会は京都岡崎の平安神宮側の旧武徳殿において、現在では講道館柔道傘下の団体として柔道を教えていることを、たまたま通っていた予備校が近くにあったことでその存在を知り、戦前のままの古式豊かな武道場「武徳殿」で稽古をすることに憧れ、そのまま入門し、西園寺大進学後も大学の運動部には所属せず、毎日岡崎通いを繰り返し、在学中に柔道、空手共に3段を取得するに至ったのである。
 どうやら私はその才を師範に見込まれたようで、まだ3回生になったばかりの頃に、将来はアメリカで武術の指導員にならないかと打診されたのである。

 そもそも武術というものは武士の戦闘術に他ならず、「やわら」とも呼ばれた柔術において、いわゆる活を入れるという蘇生法や骨継ぎなどの「活法」こそあっても、それはあくまで「殺法」の裏の面であり、柔術にせよ唐手(空手)にせよ、いずれも徒手空拳による殺人法に他ならない。
 さらには大日本武徳会は戦中の1942(昭和17)年までは、徒手空拳の柔道、空手のみならず、武器を使っての剣道、弓道、銃剣術、居合術、薙刀なぎなた術、槍術、杖術、鎖鎌術、鉄扇術などの研鑽、指導も行っていた歴史があった。

 そんな武術も武道に名前を変えることで華道や茶道のように精神性が重んじられるようになり、さらに戦後の民主化社会の中でスポーツ化、エンタテインメント化して行ったが、その実、大日本武徳会の根底に流れる殺人術の継承は決して途絶えてはおらず、これと見込んだ弟子に相伝の形で伝えられていたのである。
 日本を武装解除させたGHQが殺人術の継承としての大日本武徳会を強制解散させたのは、日本を骨抜きにするという連合国総司令部の思惑そのものではあったが、古く戦国の世から引き継がれて来た武術の歴史の前には、たかだか200年に満たない歴史しか持たないアメリカは真にその息を止めることができなかったばかりか、第二次世界大戦後の社会構造の変化や、植民地主義の崩壊と独立運動などに代表される民衆の草の根的反乱に対抗するために、廃止を目論んだはずのアメリカを筆頭にして、日本の古武術の導入の必要性を覚えたのはある意味必然的なことであったのかもしれない。
 最新兵器による大量殺戮が戦争の新しい形を作り上げた一方で、再び第一次大戦以前の至近距離での戦闘も多発する時代の到来を迎えていたのである。
 そんな中でアメリカ独立の地でもあるフィラデルフィアで、治安の悪化に伴い銃器に頼らない犯人制圧術として、武徳会に指導員派遣の要請があったのは、1984年のことであったという。
 師範は語らなかったが、おそらく1980年代初頭から、いやおそらくは70年代から、アメリカ連邦警察(FBI)、アメリカ中央情報局(CIA)をはじめとする西側陣営の大都市警察または諜報部門施設に、私の先輩たちは秘密裏に潜入していたかもしれないのだ。
               つづく