新 臓腑「はらわた)の流儀 白狐のお告げ ② | われは河の子

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市電柳川町の停留所から、一本南に入った道にその建物はあった。
 一見普通の小さな3階建てのオフィスビルで、2階と3階の窓には複数の不動産業者の「テナント募集中」のポスターが貼ってあった。
 このあたりもかつては飲食ビルが立ち並ぶ歓楽街の外れに当たる地域であったが、長引く不況の影響で、更地にされて駐車場になっている場所が目立った。
 女はその駐車場の一角にプリウスを駐めると、オフィスビルのインターホンを鳴らした。
 入り口前に赤い幟旗が一本立っていて、白抜きで「正一位稲荷大明神」と染め抜いてあった。旗は初冬の北風に翩翻(へんぽん)となびいていた。
 ドアの横に小さく質素な白木の表札が掛けられており、そこにはこれも意外と細く落ち着いた筆跡で『白狐教団』と墨書してあった。

 ほどなくそのドアが開き、紺のピンストライプのスーツと地味な茶色のネクタイに銀縁メガネという銀行員のような風采の中年男性が靖子たちの前に姿を現した。髪もきっちりと七三に分けてムースかディップで固めてあった。

 「お待ちしておりました。坂本さんご苦労様でした。」
 坂本と呼びかけられた女は男に軽く会釈をすると、靖子を振り返って

「こちら緑川さん。お狐様の事務を運営しているの。
 緑川さん、こちらが、あらやだ…… 私ったらご縁が嬉しくてお名前も伺ってなかったわ!」
 「あ、小山靖子と申します。よろしくお願いします。」そう言って頭を下げた。敢えて旧姓を名乗ったのは、まだ全面的に信じていたわけではなかったし、ピーポディという特異な夫の姓を名乗ると、有名人である杏・小山・ピーポディの関係者と気づかれるのを避けるためだった。杏がこの街の出身ということは広く知られていたことであった。小山だけだったらさほど珍しい苗字ではない。

 「小山さん、お越しくださいましてありがとうございます。私こちらの事務を担当させていただいております緑川潤と申します。おそらく突然に坂本に声を掛けられたと思いますが、何も心配することはありません。私どもはあくまで純粋にお狐様のお力とみ恵におすがりして、心の安寧と幸せを追求している団体でございます。
 一応こちらに白狐教団という名称は揚げさせていただいておりますが、宗教法人ではございません。
 お狐様に伏見稲荷大社の白狐様がお憑きになられたので現在のところ仮称として名乗っているに過ぎません。まずはお狐様のお力により救われる人を増やしてから、しっかりとした系統と組織立てをする計画でございます。」
 立板に水のように語り出す緑川を軽く片手で遮って靖子は

「それでそのお狐様とやらはどんな方なのかまずそこからご説明いただきたいのですが……」
 「ごもっともでございます。お狐様はまだ前のご依頼人様の鑑定中でございますので、まずは中でご説明いたしますし、準備を整えて頂きたく存じます。
 ああ、坂本さん、小山さんが不安に思うと困るから貴女も同席してください。もっとも私は何もいかがわしいことはしませんけどね。」
 「もちろんですわ。」
 坂本はそう言うと靖子を促して中に入った。
 どこかで香を焚き込めているような香りが漂っていた。
 「小山さん、ここで靴をスリッパに履き替えてくださる?この先は一応聖域なので、俗世間の物を持ち込むとお狐様の力が削がれるのよ。」
 そう言われて靖子はスリッパに履き替えた。
  玄関の靴箱には女物のパンプスが爪先を手前に向けて一足入れられていた。
 三人は緑川を先頭に廊下を進んだ。

 廊下の左側には道場という表札が掲げられた引き戸の大きな部屋があった。上がり框(かまち)があることからどうやら和室らしい。
 中からは微かに人の会話が聞こえるようだった。

 廊下を挟んで道場の向かい側にはドアの付いた部屋が三つ並んでおり、緑川はその一番奥のドアを開けて二人を誘った。

 中は十畳ほどの洋室になっており、中央に会議用長テーブルが二つ向かい合わせに置いてあり、パイプ椅子が数脚備えてあった。
 壁の一面はキャビネットになっており、いくつかのファイルが並んでいた。
 キャビネットの前には事務机とキャスター付きの椅子があり、デスクの上にはノートパソコンとプリンタが安置してあり、インターホンのような装置も置いてあった。
 キャビネットのある壁と直角をなす壁には簡単な流しがあり、その横に茶器やコーヒーカップを置いたワゴンが並んでいた。
  部屋のあちこちには小さな陶製の白い狐の置物が置かれていた。
 靖子は杏が京都の西園寺大学に進学した時、サミュエルと二人で娘の生活態度を確認しに行ったついでに観光した伏見稲荷大社の参道沿いの土産物店の店頭に並んでいた狐の縁起物を思い出した。


写真はお借りしました


 
 緑川はパイプ椅子に二人を座らせると、自分はデスクに付かずに二人の向かいに座った。
 「私お茶を淹れるわ。小山さんも緑川さんもコーヒーでいいかしら?」
 二人の同意を得ると坂本はコーヒーカップ三つにワンドリップコーヒーをセットして、お湯を注いで盆に乗せてテーブルに運んで来た。香り高いコーヒーだった。
 
 それで一口唇を湿すと、緑川は改めて話し始めた。

 「お狐様はご俗名を谷川晃子、たにがわあきこ様とおっしゃり、ご婦人のことゆえご年齢はお伝え致しかねますが、前期高齢者でございます。
 元々は北海道ご出身で、長らくバスガイドをお勤めになられておりましたが、今から10年前に道内の高校の修学旅行の引率で訪れた京都の伏見稲荷大社で突然脳出血の発作に襲われて昏倒、そのまま救急車で病院に搬送されました。
出血部分は大きく、一時は生命の危機も医師から告げられたのですが、奇跡的に回復されました。
 およそ半年の入院ののちに退院することはできましたが、左半身にわずかに麻痺の後遺症が残りましたし、やはりその時に聴神経をやられまして、左耳の聴こえが悪くなり、現在補聴器をお使いになられています。
 それでお願いですが、今後お狐様と会話される時は、別に大きな声は出さなくて構いませんので、ハッキリとした口調でお話しいただくことをお願いいたします。

 そしてその伏見稲荷の境内でお倒れになられた時に、稲荷神の使いである神狐の中の白狐様がお憑きになられたのです。そして左の聴力が衰える一方で、白狐様のお声が届くようになられました。
 これが眼の前にいる人の運命を報せるお告げとなったのです。

 それから谷川様はご自身のお生命をお救いいただいた白狐様に感謝を捧げると同時に、白狐様から与えられたお力を利用してこの世で様々な悩みを抱える方々のためにその能力を尽くそうと、バス会社を退職し、退職金と生命保険金を使って活動を始められたのです。
 数年は京都に滞在し、伏見稲荷のお山で修行を積まれ、能力に磨きをかけると同時に、正一位稲荷大明神の神階を勧請いたしました。
 ですが案外軽かったとはいえ障害を抱えた身体なので、マスコミなどを通して大々的に宣伝することなどをお嫌いになり、口コミだけでそのお力を広めて参ったのでございます。

 ちなみに私は元々は京都に本社を置く音響機器メーカーの社員でございまして、当初は谷川様の補聴器の担当をさせていただいていたのですが、実は息子が脳性麻痺の障害児でございましたうえに妻がそれを苦にして鬱病を発症して、一時は地獄のような家庭でしたが、ある時お狐様が運命を鑑定してくださり、そのお言葉のままに生活を変化させて行ったところ、妻の精神状態も改善して今では明るく元気に働いておりますし、息子の四肢麻痺は治ったわけではありませんが、幼い頃から長年の主治医であるドクターも驚くほどの回復を果たし、現在はこれも元気に特別高等支援学校に通っています。
 そのご縁に感謝して、会社を早期退職して、お狐様にお従いすることになったのです。」
 そこまで緑川が語った時、キャビネットの前のデスクに上のインターホンが鳴り、廊下に人の出てくる気配があった。

 「さて、前の方が終わったようです。いよいよお狐様とのご対面ですが、当教団のしきたりでお着替えをしていただかなければなりません。先ほど坂本も申しました通り、この先は俗界の物は身に付けることはできないのです。
 隣の部屋がロッカー室ななっておりますからお着替えをお願いいたします。
 下着は着けままで結構ですが、その他のものは時計・アクセサリーに至るまで外して中のコインロッカーにお入れください。料金はかかりませんし、坂本がご案内します」


 そう促されて二人は立ち上がり、一度廊下に出て隣の部屋に入った。
 そこは広さは先ほどの事務室と同じくらいの面積があったが、入り口右手から三分の一くらいまで造り付けの大きなコインロッカーが並び、まるで駅のロッカー室のような様相だった。
 「近頃は口コミを超えて、遠く本州からお狐様を訪ねられる人も増えましたので、キャリーケースごと保管できるロッカーを備え付けたのです。中に入っている作務衣に着替えてください。先ほど緑川さんが言っていたように、アクセサリーも全部外してください。着替えて鍵をかけたら鍵は手首に掛けてください。私は外で待っていますから、着替えが終わったら声を掛けてください。」そう言うと坂本は更衣室の外に出て行った。

 靖子は言われるままに、ハンドバッグをロッカーの中に入れるとブラジャーとショーツだけの姿になり、ロッカーの中に納められていた作務衣から女性用のSサイズを取り出して身に付けた。
 筒袖の白木綿の上下で、腰の所と足首を紐で縛るようになっていた。清潔な白一色だがポケットも何もなく、言われなくても何も持ち出すことはできなかった。
 ロッカー室の中にはおそらく両側の部屋に繋がっているであろう安者のドアがあった。
 並んだロッカーと入り口ドアの間にある鏡で後れ毛だけを確認すると靖子は外に出て坂本に声をかけた。

「ちょうどよかったわ。今お狐様から入室の許可が出たわ。それじゃ行きましょう。何も緊張することはないのよ!」坂本はどこまでも明るかった。

 道場の前で坂本が失礼しますと声をかけると中から「どうぞ」というしゃがれた声が聴こえた。
 
 戸を開けると、先ほど坂本にもらったチラシにあったそのままの祭壇を背後にして、純白の法衣のようなものに身を包んだ眼光の鋭い小柄な老女がこちらを向いて座布団の上に座っていた。

 「お入りなさい。」
 お狐様はそう言った。