ミステリースポット紀行 ⑨ 祟り神の洗礼 | われは河の子

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 いつも言っていることですが、北海道函館市の公立高校を卒業した私は、その年の大学受験には失敗したのですが、受験でわざわざ京都まで行きましたので、尚更本格的に憧れを抱く気持ちが募り、親に無理を言って京都の予備校に行かせてもらうことにしました。

 高校の進路指導部にマメに顔を出しておけば、駿台予備校や近畿予備校などを紹介してもらえたのかも知れませんが、何も情報がないまま、使っていた旺文社の大学受験ラジオ講座のテキストに広告を載せていた東山二条にあった京都予備校というところに願書を出すとあっさりと入学が認められ、私は再び上洛して予備校で入学手続きをしました。

 送ってもらっていたパンフレットに委託寮が何ヶ所かあるということが書かれていたので、その場で洛北八瀬の寮を紹介してもらい、場所と部屋を見るために教えられたバスに乗ってその寮を目指しました。

 バスは鴨川沿いの川端通をどんどん北に走って行きましたがふと気づくと比叡山の懐深くに入って行くではありませんか⁉️

 若狭と都を繋いだ鯖街道でした。

 やがて叡電の八瀬遊園駅を過ぎてまもなく、九頭竜弁天神社という当時は小さな神社の隣に二階建てのその寮はありました。

 中を見せてもらい、2階の階段に近い個室を予約して函館に戻りました。

そして翌春、大学新入学ではないので希望に胸躍るというのは大げさでしたが、それでも男児初めて家を出て他郷に入るという感激でその寮に入りました。

 前述したように、バス1本で通学は可能でしたが、私は函館から原付バイクを持って行っていましたので予備校通いの苦労はありませんでした。


当時乗っていたHONDA CB50JX-1


  寮では2食は出ましたが、日曜日なは賄いのおばさんを休ませなければならなかったので、昼夜は出ませんでした。

 ですから予備校のある毎日はともかく日曜日にも山を降りて食料を調達するか食事をしに出かけなれければなりませんでした。


 その寮から目の前の高野川沿いに1キロ弱街道を降りると、右手に傍目にも気味の悪い神社の参道がありました。

 夏の夜などは肝試し方々寮の仲間と連れ立って行ってみましたが、街道から伸びる参道はどこまでも暗く鬱蒼とした森に包まれており、とても肝試しができるような範囲ではなかったために這々の態で足早に帰途を急ぎました。


どこまでも森の中に伸びる参道。


参道入口は昼間でもこんな感じ

 翌年、晴れて大学に受かって住処を左京区八瀬の地から北区衣笠に移してから知ったことでしたが、そこは祟り神早良親王(さわらしんのう)を祀る崇道神社でした。


 早良親王は奈良時代の皇族で、光仁天皇の皇子であり、平安京を使った桓武天皇の異母弟でその皇太子でした。母親の身分が低かったため、父親の皇太子には兄の桓武が先に立ちますが、ご存知の通り、桓武天皇は青によし奈良の都は咲く花のと呼ばれた平城京が、しかし仏教勢力にいいように牛耳られていたことに反感を抱き遷都を決意します。最初は京都の南に隣接する長岡京を造設しようとしたのですが、その造営使だった中納言の藤原種継が暗殺されます。

 数十年続いた首都が遷都するわけですから、利権絡みの政治上の暗闘があったことでしょうし、当然旧都に置き去りにされた奈良仏教諸派の反発も大きかったと思われます。

 この事件に関して多くの人物が関与を咎められて処刑されますが早良親王もこれに連座して廃太子の憂き目に遭います。親王は無実を訴え絶食に出ますが、その後淡路国に配される途中で憤死します。一説には桓武により処刑されたとも伝えられます。


 その後完成したばかりの長岡京では皇族に病気が相次ぎ、都にも疫病や洪水が頻発し、早良親王の祟りが囁かれるやうになります。

 それでノイローゼのようになった桓武天皇がせっかく作った都を僅かな期間で捨てて、現在の京都に平安京を作るとともに、そもそも京の鬼門(古来鬼が侵入して来ると信じられていた北東の方向)に鬼門封じのための比叡山延暦寺を置き、さらにその麓に淡路で死んだ早良親王の霊を鎮める神社を作り、崇道天皇という尊称を追従したのがこの神社だったのです。

 

 すなわち何も由来は知らなかったのにも関わらず、雰囲気だけで近寄ってはいけないナニカを感じたのは事実です。


八瀬よりまだ下、上高野の地より仰ぐ比叡山。


 崇道神社拝殿。

 現在でも崇道神社は京都で一番恐ろしい神社としてネット上を賑わせています。