花束嬢 | われは河の子

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令和のプロレスで無くなったものといえば、タイトルマッチ宣言と花束の贈呈だそうです。

 確かに昔(昭和から平成の)プロレスの試合では試合前のセレモニーで、お手盛りのチャンピオンベルトがかかった試合前にベルトにありもしない箔をつけるために、政財界の巨頭や地方の試合では日テレやテレ朝の系列地方局のお偉いさんが読むタイトルマッチ宣言などがあり、昭和30年台には、後にロッキード事件で注目された右翼の大物である児玉誉士夫が、リング上に上がって重々しく宣言書を読む姿がテレビに映し出されて、現在もYouTubeで確認することができます。これは当時の日本プロレス協会の会長があの山口組3代目の田岡一雄であり、児玉誉士夫は同副会長だっという興行社会の闇話によりますし、馬場の全日本プロレスではいつもハワイから白い頭のPWF会長のロード・ブレアース氏を招いて宣言されていたことが懐かしいです。

 それと、セミファイナルとメインイベントでは両選手レフェリーに花束の贈呈が行われておりましたが、テレビの地上波中継がなくなり、番組スポンサーがつかなくなったことで、自然とこの風習は撤去されました。昔は大試合になればなるほど試合前のセレモニーに時間が取られ、なかなか試合が始まりませんでしたが、現在は選手紹介ですら入場中に行われ、両選手がリングに登場したら直ぐにゴングが鳴るようです。


 私が初めて生でプロレスの試合を観戦したのは1975(昭和50)年の3月19日に行われた前月にこけら落としをしたばかりの函館市民体育館における全日本プロレス函館大会でしたが、そのメイン・イベントのチャンピオン、ジャック・ブリスコ対挑戦者ジャイアント馬場の当時世界最高峰という触れ込みであったNWA世界ヘビー級タイトルマッチでは仰々しいタイトルマッチ宣言と、何と華やかな両国国家吹奏(録音だが)まで行われましたし、当日参戦していた、力道山とも死闘を繰り広げた往年の黒人名レスラーのボボ・ブラジル選手が、その頃はもうキャリア晩年で狂乱ファイターに変貌を遂げており、贈られた花束をムシャムシャと食い散らかすパフォーマンスを展開していたのが印象的でした。(ブラジルは、裸の肌を直接ぶつけ合うプロレスにおいて、黒人選手の地位向上と差別改善に功績があったとされて、生前にWWFの殿堂入りを果たしている名レスラーでしたが、彼の必殺技の石頭を利用した頭突き「ココバット」は現在は差別用語として使用禁止となっています。ココナッツの実による頭突きに、空っぽの頭という揶揄があるそうです。)


 もちろん何の取り柄もなく、らごく平凡な人生を経て来た私には花束を贈呈されたことなど、ただの一度きりしかありません。

 

 大学の卒業式で所属していたサークル「観光事業研究会の美女たちによる花束贈呈がありました。


観研ギャルズによる花束嬢たちと。


この時はすでに下宿を引き払っていたから、もらった花束はこのあと馴染みの喫茶店に置いて来ました😆