入院総括① | われは河の子

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いよいよ長かった入院も今日を残すのみとなりました。


 昨日は今日がシフト休みの美女OTのKさんと最後のリハビリになりました。PT(脚)OT(手)ST(言語)のリハビリが均等ではなく、一番多い時間接してくれたのが彼女でした。『いろいろ面白いお話が聞けましたし、人生経験としても勉強になりました❣️』と言っていただけました。

 退院は明日の朝9時半ですが、その時に顔だけはまた見に来てくれるそうです。


 付き合いが長く濃くなったからKさんにモテるのはなんとなくわかるとしても、昨日は夜勤明けの看護師さんが『みんつちさん、私夜勤明けで明日と明後日連休なのでこれでお別れなんです。お元気でがんばってくださいねウインク』とわざわざ挨拶に来てくれ、A脳神経外科と比べてなんだかんだ文句を言っていた自分が恥ずかしくなりました。


 しかし、今までの入院と一番違ったのは患者さん同士でのコミュニケーション・おしゃべりの少なさでした。

 6年前の脳出血の発症時には1歳違い(向こうが上)の同じ脳出血の玉井さんと、半年間ずっと同室だったので常におしゃべりしていました。小樽出身で東京の私立大学を出て、中国の大連で仕事をしていたというちょっと変わった経歴を持つ彼とは話が合い、コロナ前ということもあって、見舞いに来るニョウボや、彼のお母さん共々すっかり家族ぐるみのお付き合いのようになりましたし、去年のSCSの手術の時には、なんとブログフォロワーのそば屋さのあんちゃんと隣のベッドという強烈な偶然に驚きました。彼とも本の話、吹奏楽の話、切り絵の話など、話して尽きることがありませんでした。


 ところが今回の丸4ヶ月あまりにおける入院では、A脳神経外科では文句いいジジィばかりだったとはいえ挨拶程度は交わしましたが、このH病院に移ってからは、誰ひとりとも、ただの一回も会話を交わしていません。刑務所の雑居房でももう少し会話はあるんじゃないかと思います(知らんけど😆)

 元々男性にしてはおしゃべりな私としては、これが寂しさを募らし、はるか昔の友人知人にまで連絡を取るエネルギーになりました。


 30年ぶり連絡がついた人たちへの喜びよりも大学時代からの友人藤岡を失ったことは衝撃でした。

 今年が結成40周年になるわれわれのゼミの表だってのリーダーは運営員長の中村でしたが、裏のリーダーであり精神的支柱は間違いなく彼でした。再会した二人にはこの先また連絡を取ることが可能ですが、藤岡はもう永遠に思い出の中の存在でしか無くなってしまいました。

 そんなこともこの入院を象徴する出来事でした。


 今回私は自室で睡眠中にてんかんの大発作に襲われ、失禁した上に嘔吐した物を飲み込んで誤嚥性肺炎を併発し、呼吸が停止し、痙攣発作を起こしたままA脳神経外科に救急車搬送されました。

 原因は6年前の脳卒中(私の場合脳出血)の後遺症でありますが、てんかんの場合原因不明のケースの方が多いくらいなんだそうです。

 脳卒中経験者にてんかんのリスクがあることは知ってはいましたがはっきり言ってノーマークでした。

 というのも、私はこのブログやFacebook、他のSNSを通じて数多くの脳卒中体験者と知り合いましたが、てんかん持ちを自称する人がほとんどいなかったからです。

 かつて同じグループに所属していた30代のT君くらいでしょうか?私の倒れた翌月の2月に仲の良いゆかりんこと歌手の湊由香里さんも同じくてんかんで救急車搬送されました。

 彼女も私と同じくSCS療法手術を受けているので、MRI撮影をするには指定された病院しか使えず大変だったようです。


 その他にもてんかんをやられた脳卒中ホルダーは何人もいらっしゃるのかもしれませんが、敢えてその情報を公表されていないのか?あるいは私が迂闊に見落としていただけだったのかもしれません


 しかしながら、脳卒中体験者の10人に1人はてんかんを発症するとネットにあります。

 後遺症率1割です。決して低い数字ではありません。しかし視床痛脳卒中体験者有病率の8%よりは高い数値です。

 すなわち脳卒中を起こすと視床痛よりてんかんに見舞われる確率が高くなるということです。

 そんな視床痛とてんかんの2つとも引き当ててしまった私やゆかりんって…滝汗

 てんかんそのものは精神障害として、精神障害者保健福祉手帳という障害者手帳の対象になりますが、私もゆかりんも既に身体障害者手帳保持者ですからそれはいいとしても、今後私はこのてんかんの落とし穴についても視床痛やSCS療法と共に情報発信して行かなければと思います。


 長くなったので、②に続きます。