ホーンテッド・キャンパス 8 | われは河の子

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ホーンテッド・キャンパス この子のななつのお祝いに 櫛木理宇 平成27年 角川ホラー文庫


 雪越(せつえつ)大学オカルト研究会の面々は卒業し、就職する副部長の4年生三田村藍の卒業旅行と称して、男3人、女2人で一台の車に乗り込み旅行に出かける。

 ところが、偶然の高速道路の事故による渋滞とおりからの猛吹雪によるホワイトアウトのために予約していた宿にはたどり着けず、その宿から連絡を受けて立ち往生しているであろう地点を推測して救助してくれた別の辺鄙な山村の温泉宿に厄介になることができたが、メンバー内で霊感体質の持ち主の2年生男子の八神森司は、そこで視えてはならないものを見てしまう。

 古い因習と神事、そして複雑な血縁関係に支配され、排他性の高く、古来天災の多いその僻村は、おりからの冬の嵐で、落雷により谷川に掛かる蔓橋のワイヤーが切れて、吊り橋が落ちてしまい、外界から孤立してしまった上に、全村停電に見舞われる。

 マンガ読書やゲームに興じ、温泉三昧を満喫するオカ研メンバーの知らないところで、村の祭りの『御役目』に選ばれた少女が行方不明になり、何者かにご神体が奪われる事件が発生する大騒動が発生していた。

 しかもこの瓜子姫物語を縁起に持つ秘祭では過去に殺人事件も発生しているという。

 オカ研は、忌まわしき過去の因縁を絶ち切り漂っているモノたちを解放できるのか?


 現代ではミステリーとは作者が想定した世界内において、その社会における合理性から逸脱しない限り、現実的にあり得ない設定でも許されるという特徴がある。


 今から100年近く前に活躍を開始したディクスン・カーでさえ、得意とした不可能犯罪や密室トリックではあくまで物理的作用と心理的誤認にこだわり、超自然的能力などを持ち出さなかった一方で、平気で主人公をタイムスリップさせる作品も書いている。


 ミステリ黎明期に書かれた有名な『ノックスの十戒』や『ヴァン・ダインの20則』といったミステリ作法では、探偵は超自然的能力によって事件を推理したり解決してはならないという、極めて当たり前のことが書かれているが、進歩し続けるミステリでは諸々のルールは平気で破られている。


 この作品も弟のところから回ってきた物で、この作品がシリーズ8巻目で初の長編小説であるという。私にとってこれが初読なため、オカ研メンバーの人物像やその背景、過去の経緯は本作からしか知る由はないが、大学のオカルト研究会というと、高田崇史のQEDシリーズを思い出す。民俗学や神話などに題材を取っているところに共通点はあるが、QEDの主役である桑原崇と棚旗奈々はオカルト研究会出身とはいえ、現職の薬剤師というバリバリの社会人であるため、博識で蘊蓄語りの崇と、この作品のオカ研部長で大学院生の黒沼麟太郎に幾分似たところはあるが、青春ミステリという点では、メンバーに若干の幼さを感じさせるこちらのシリーズの方がヤング層向けといえる。


 古い言い伝えと村の権力関係。そしてきょうだいを巡る血縁関係…まるで横溝正史の『悪魔の手毬唄』における鬼首(おにこべ)村である。


 しかしミステリとしては大きな齟齬があると言わざるを得ない。

 ネタバレになるので迂闊なことは明かせないが、それはすなわち前述した作者の想定した世界観の共通認識が私には無いからである。

もしかしたら、シリーズの過去作中で紹介・説明されているのかもしれないが、幽霊が出てくるのもいいし、それが視える人と視えない人がいるという世界を認めるのはやぶさかではないが、幽霊は生前の記憶をすべて持っているのか、幽霊は死んだ年齢時の姿でのみ現れるのか?という辺りは私の認識の中にはない。


 例えば私が河童が出て来る小説を書いたとして、それには頭に皿のような凹みがあるとか、甲羅を背負っていると書くのは、河童の実在はともかく、共通認識として許されるだろうが、その河童が、現場から逃走した手段は、手足を甲羅の中に収納して、その収納口から火を噴いて、回転しながら山の彼方に飛び去ったと書くのは反則である。 それは河童の特性ではなく怪獣ガメラの特性として共通認識されているからである。

 逃げようとする河童の手を引っ張ったらすぽんと抜けてまんまと逃げられたと書くのは良い。(犯人扱い🤣)河童の腕は体内で繋がっていて、引っ張ると抜けるというのは河童の共通認識として全国に流布しているからである。


 魔法使いやエスパーが出て来るミステリはいくつも読んだが、幽霊を出す場合、そもそも幽霊をきちんと定義して読者に同じ世界観を共有してもらわなければ,消化不良や嫌悪感を残すことになると思った。


 巫女筋とか憑き物筋とか稀びと(異人・来訪神)とか、六部殺しとか好きだけどね🤣