火葬場 | われは河の子

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体内に電子制御の精密機器を埋め込んである私は、死亡して火葬する際に600℃以上の高温で焼くと機械が爆発する恐れがあるので、必ず事前に制御装置を取り出すか、火葬場職員に告げなければならないことになっています。



 ところで、昔、京都市北区の金閣寺の裏山に当たる場所に火葬場がありました。


40年以上前に私が京都に行く時に買って、未だに持っている地図にもちゃんと掲載されています。


 写真中央左部分、ピンクのマーカーで印をつけた蓮華谷火葬場というのがそれです。数年前に閉鎖撤去されたそうです。


 私の大学正門前から衣笠山を越えた場所にありました。大学の先輩に当たり、20歳の誕生日から鉄道自殺するまでの葛藤を日記に記し、死後に「20歳の原点」という書名で発表された高野悦子さんもここで荼毘にふされました。


 ありし日の蓮華谷火葬場の写真

写真はお借りしました。


 なぜこんな事を書くかというと、私が浪人して左京区八瀬の予備校寮に住んでいた時に、私の斜め前の部屋に住んでいた谷川君という奴が、私と同じ大学の二部(夜間部)に入学したのですが、彼が比叡山の麓の寮から引っ越したのが、あろうことか、当時この火葬場の真ん前にあった、わりと新しい瀟洒な小さいマンションだったのです。

 築年数も浅く、場所が場所なだけにおそらく家賃も格安だったのでしょう。

 同じ大学に進んだ私や、わりと近場の仏教大学や京都産業大学に進んだ、同じ寮にいた仲間と共に彼の部屋に何度か遊びに行ったことがありました。

当時私は50ccの原付バイクに乗っていましたので、自分の下宿から山道をバイクで走ったら15分ほどで着く距離でした。


 軽快にバイクを駆っていた頃の私(中央)

 3回生のゼミの仲間と、さらに山奥にあった「しょうざんボウル」にてボーリング大会。


 私の下宿は大学から近いとはいえ、風呂なしトイレ共同(しかも最初の2年間は水洗化さえされていなかった)で、他の仲間も一人暮らしのアパートに移ったとはいえ、水準は似た様なものだったので、場所はともかくマンションというものに住んだ谷川君に興味を覚えたのです。


 1年間共同生活をした仲間たちですので、徹夜で彼の部屋でおしゃべりしたり遊んだりしました。

 朝になって腹が減ったという話になったら、谷川君が1階に軽食くらいなら出す喫茶店が入っているということで、ゾロゾロ連れ立ってその店に行きました。

 するとそこは神妙な顔をした黒衣の男女でいっぱいでした。辺鄙な山の中の古い火葬場でしたので、焼き上がりを待つ朝一番目の遺族が待合室代わりに使っていたのです。各人の喪服に染み付いた線香の匂いがコーヒーの香りをかき消すようでした。

 その後仲間うちで「喫茶骨壷」などと呼ばれていましたが、私はバイクを飛ばして自分の部屋に帰った方が早かったので、二度とその店に行ったこともありませんし、卒業までの間に谷川君との交流も途絶えました。

 大学から火葬場までの間の氷室地区には大学の氷室グラウンドがありましたし、その後国際関係学部が設立建設されました。

 やはりその近くにサークルのO先輩とT先輩が暮らす○雲荘という典型的な古びた学生アパート(共同玄関)があり、場所的には不便でしたが、

サークルの幹部が二人も居住しているものですから、しばしばそこで大宴会を催し、T先輩などはギターを掻き鳴らして騒いだりして大家さんに怒られたり、O先輩の隣の部屋の住人が首を吊って自殺したのに、それに気付かず、夜中に壁をドンドン叩いて『一緒に麻雀しませんか?』と声を掛けていたという笑えない話もありました。


 表向きは女子禁制で門限夜10時ということになっていましたが、大学から近く、懇意にしていた酒屋さんからも至近距離だった私の部屋が、それから長く宴会部屋となりました。







 酔っ払った女性の先輩を泊めそうになったこともありました。どこが女子禁制なんだか🤣