私の京都物語 ③ | われは河の子

われは河の子

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しばらく中断しておりましたが、性懲りもなく続きます。

 さて、京都で予備校生となった私は、洛北八瀬の地の寮に住まいを定めました。
 八瀬は壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が背に矢傷を負って負傷を治療した所という由縁を持つ、北海道民にとっては気も遠くなるほどの歴史を持った集落で、代々の天皇の葬儀の時にその輿を担ぐ八瀬童子と呼ばれた人々の子孫が暮らしていて、その後の昭和天皇の大喪の礼の時にも宮中からお呼びがかかりましたが、もはや誰もそのしきたりや作法を覚えていなかったという鄙びた集落でした。
目の前には比叡山が黒々と聳え、さらに高野川の清冽な流れに沿っており(京都中心部を流れる鴨川は、東から来る高野川と西から来る加茂川が、出町柳のデルタ地帯で合流して鴨川に名前を変えます。)その当時(1980年代)でも、夏には寮の前で泳ぐことができました。
さらに周囲の山には猿が呆れるほどいて、しばしば寮の洗濯物干し場をめちゃめちゃにしたり、屋根に登ったりして驚きました。なにせ北海道には猿は生息しません。
都に出たというより、日本昔話の世界にやって来た感じがしました。
寮の名前は叡六荘といいました。ここで1年間同じ釜の飯を食う仲間たちとの出会いがありました。

 その時の、入寮契約書の控えです。
なぜこんなものが未だに取ってあるのか、我ながら不思議です。






当時の仲間たちと。
残念ながら、現在も消息のつかめているものは一人もおりません。
 もちろんその1年間は、女っ気ゼロでした。
悔しいから、夏休みに帰省した時に会った、高校の時のクラスメイトの古都ちゃんの写真を貼ります。←なんか意味あんのか?
 はじめての一人暮らしと思いきや、一人になるのは寝るときだけと言っていい、不思議な共同生活が始まりました。

残念な事に通った予備校は二流でした。
なぜそれがわかるかといいますと、予備校が始まってすぐに、第1回の練習模試というものがありました。オープン参加の普通の模試と違い、その予備校に在籍するものだけが力試しに受けるものです。その練習模試の、私立文系コースにおいて、私は4位。しかも続く第1回京予備模試では、なんと私は2位でした。こんな胡散臭い話が信じられるでしょうか?合格可能性は90%と判定されましたが、それが事実なら、私はこんなところにはおりませんでした。
 京都のイケズ(いじわる)に触れた瞬間でした。
成績上位者の横に出身高校が記されて掲示板に張り出されましたが、「函館〇〇高校?、そんなどっから来とる奴がおるんか⁉️」と騒がれて、なん
メリットもありませんでしたが、誰がが寮のおばちゃんに報告したんでしょう、「みんつちはん、あんた賢いんやってなぁ?」とおばちゃんだけが上機嫌でした。
 何事も初めて尽くしのこの生活は、エピソードに溢れ、その思い出だけで1冊の本が書けますが、冗長になるので割愛します。
ただ、わずか1年間でしたが、印象と思い出の強烈さは、その後の大学生活4年間に匹敵するものでした。


まだまだ続く。