海と船の不思議 93 彷徨える甲鉄艦 | われは河の子

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東(あずま)は、創成期の大日本帝国海軍が保有した全長59メートル、排水量1358トンの軍艦ですがかつては「甲鉄」と呼ばれ戊辰戦争時の宮古湾海戦で、蝦夷共和国軍の接舷攻撃(アボルダージュ)を受けた一方の主役ですが、その前半生は、紆余曲折に満ちていました。
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写真はお借りしました。
そもそも、南北戦争中のアメリカで、南部連合(南軍)が、同盟関係にあったフランスに発注し、1863年に起工、翌年に竣工しました。船体を鉄の装甲板で覆い、防御力を強化した作りになっています。
ところが敵対する北部連合からのクレームがつき、契約は破棄されました。
今度は当時プロシアと戦争状態にあったデンマークに売却されデンマークに回航されました。
ところがその段階で戦争は終結。デンマークは受け取りを拒否して、再びフランスに戻ります。しかし、今度はアメリカの南軍がこれを奪取します。
そのまま新大陸へ向かいましたが、ハバナ入港後に北軍に包囲されます。
そのままキューバに売却されてしまいます。ようやく南北戦争が終わるとアメリカはまたもこの船を買い戻します。
これが幕末に日本の知るところとなり、徳川幕府がこれを購入することになり内金も入れ、日本に回航されます。
ところが今度は日本で維新の内乱が勃発し、薩長新政府も、所有権を主張します。
アメリカは当初は局外中立の立場をとり、どちらの政権にも引き渡しを拒みましたが、戦況の変化に伴い新政府側に引き渡され、旗艦開陽を失った榎本艦隊が宮古湾に突入しての乗っ取り作戦となり、土方歳三始め新選組などが斬り込みますが、野村利三郎らが戦死し!榎本軍の失敗に終わりました。
維新後は明治政府が海軍の軍艦として登録し、あずまと命名されました。甲鉄は、通称であり、旧名はストーン・ウォールです。よく、ストーンウォール・ジャクソンと言われますが、ストーンウォール・ジャクソンとは南北戦争の南軍の猛将で、その名を戴いた軍艦はありましたが、河川運行の外輪船で本艦とは別物です。
日本における正式名称はあくまでもあずまです。その後佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争などに従軍しますが、最後は台風によって長崎で沈没、除籍され、引き揚げご、解体スクラップ処理されました。
死んだ野村利三郎は、自分の死に場所が後に東と呼ばれたことや、土方の辞世の句と呼ばれる一首
よしや身は、蝦夷が島辺に朽つぬとも
魂は東の君や守らむ
を知ったならば、感涙にむせんだかもしれません。