乗客もろとも沈む紫雲丸。
(写真はお借りしました)紫雲丸は宇高航路に就航していた旧国鉄連絡船で、昭和22年の就航からわずか9年の間に5度の事故を起こしました。
最初は昭和25年3月、高松を出港した紫雲丸は、宇野から出港した鷲羽丸と衝突して沈没します。
この事故により乗組員72人中7人が死亡しました。
さらに翌年8月には第二ゆす丸と衝突。
その翌年(S27)4月捨て石に、9月には福浦丸に接触します。
そして運命の昭和30年5月1日。
あの洞爺丸海難事故からわずか半年後に、第三宇高丸と衝突した紫雲丸は、たちまち海中に没し、修学旅行中の小学児童を中心に168人が命を落としました。
紫雲丸の船長は退船指示に従わず、自らも船と運命をともにしました。
洞爺丸事故が、後の青函トンネル計画を推進したように、紫雲丸事故は本四連絡橋建設を後押ししました。
紫雲丸の紫雲とは、高松市内の紫雲山に因みますが、就航当初から「死運丸」と揶揄されていました。しかし、そもそも紫雲とは、人の臨終に際して、仏が乗って迎えに来る雲のことを指すのです。
紫雲丸はその後引き揚げられ「瀬戸丸」と改名されて三たび就航しますが、昭和35年には中央栄丸と衝突し、今度は相手船を沈めてしまいます。
なお、紫雲丸事故から2か月後に、今度は三重県であの橋北中学集団水死事件が起こり(その記事は、私の過去記事2015.5.9の海と船の不思議 34をご参照ください)、
これらの事件事故を受けて、文部省は、全国の学校でのプール建設並びに水泳習得教育に力を入れることとなりました。
