青函旧時代 | われは河の子

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昨日から新幹線開業で(いささか食傷気味ですが)盛り上がっている青函圏。
新時代到来といったところでしょうか。

しかし、昭和中期生まれの世代、なおかつ函館ッ子としては、やはりあの連絡船の雄姿を忘れることはできません。

廃止からはや四半世紀を過ぎ、連絡船を知らない世代も増えた昨今、私の中で思い出はもう美化されすぎています。
(同年代のブロ友さんに未だに廃止を知らなかった方がいらっしゃいましたが、そんなツワモノはさておいて)

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これは中学の修学旅行ですね。
まだ白黒写真です。
ちなみに私の後ろで手を掲げている吹奏楽部仲間の大塚君は、今では東京で会社経営者です。

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イルカのジャンプなども楽しめました。
ホエールウォッチング連絡船です。

しかし、今の北海道新幹線が、新函館北斗と東京間を最短4時間2分で結ぶのに、
この航路は函館~青森だけで3時50分かかりました。
桟橋から直接乗られる我々函館民はまだしも、サッポロや旭川、帯広などの同世代の道産子の修学旅行での思い出を聞くと、国鉄で函館まで5時間から半日。そこからの連絡船で旅行初日は終わり、この時点でヘロヘロになっていたことを知らされます。

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これは高校の修学旅行の船上でのクラス写真ですね。(メンドくさいから目線は消しません)
最後列右で1人だけネクタイを締めているのが私です。
や~、最前列でマンガ雑誌手にしているのは現役で東大いったユースケだ。
懐かしいなぁ。

(そもそも青函トンネル構想は、昭和29年の洞爺丸の海難事故が拍車となって推し進められました。
この洞爺丸沈没では、1175人の死者行方不明者を出しましたが、実はこの日の台風では同じく青函航路の貨物便連絡船でも北見丸ら4隻が沈没し、乗組員275名が殉職されたことはあまり知られておりません。)

中学高校の修学旅行の往復。
前にも書いたけど、高校時代のサボりでの往復乗船(往復千円で1日潰せた)。
京都での学生時代の帰省ごとの往復。
それに個人的な旅行などを併せると、私は30回近くこの連絡船を利用させてもらいました。



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昭和63(1988)年、青函トンネルの開通を記念して函館と青森では青函博が開催されました。

けどこれはショボかったですね。

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函館にパンダがやってきた!なんてイベントもありましたが、どーしようもなくショボかったです。
私は70年の世紀の大阪万博はテレビでしか見られませんでしたが、

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85年のつくば科学万博は行きましたので、余計にその格差というか情けなさを実感しました。

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コンパニオンさんと写真を撮ることができたのだけが収穫ですかね?


今となっては本当に隔世の感があります。
あんまり興味はないけど、新しい新幹線もたくさんの人の思い出を紡いでくれることでしょう。

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この本は今となっては宝物ですね。