裸で逃げた男は誰か 2 | われは河の子

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さて、前回、新約聖書のマルコ福音書にのみ登場する、イエスの逮捕時に裸で逃げた若い男について書きました。

その正体を探る前に、
そもそも福音書とは何なのか?
これを考えてみたいと思います。

今、私の手元にある聖書は、
ユダヤ教の聖典である旧約聖書が1326ページ、さらにキリスト教の聖典として加えられた新約聖書が409ページで、全巻で1735ページありますが、
その中で福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4種全て合わせても179ページで、
聖書全巻中の10.3%に過ぎません。

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しかし、(キリスト教徒ではない)一般の日本人にとっての知識の中では、
この福音書の内容こそが、聖書そのものといってもいいでしょう。

イエスの生誕から、十字架での死、そして復活に至るまでの生涯の物語です。

例えば、あなたは、ルツ記や雅歌、あるいはオバデヤ書を知っていますか?
また、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙という物を読んだことがありますか?
これらも、聖書の一部として、全世界に流布していますが、
私はその内容はまったくわかりません。

しかし、
知っているはずの福音書でさえ、
その内容に大きな差異のあることも、あまり知られてはいないのではないでしょうか?

例えば、イエスの生誕の時、東方から博士たちがベツレヘムにやってきたエピソードは有名ですが、
この話は、第1のマタイ伝にしかありません。
他の3書には記載されてはいないのです。

また、イエスが十字架上で息を引き取る時に語った言葉も、
実は4書で違っています。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ  
(我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)      マタイ

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ   
《意味はマタイと同じ》   マルコ

父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます
                  ルカ

すべてが終わった
                   ヨハネ

ここって、一番のヤマ場というか肝ですね。
それなのに、なぜ違っているのでしょうか?
一緒にするわけにはいかないでしょうが、
例えば、元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)で、浅野内匠頭の辞世の句が、書物によってバラバラだったらどうでしょう?



福音とは、よい報せ(グッド・ニュース)の事で、これはイエスの復活を意味するといわれます。
ラテン語でイーヴァンゲリオン。
あのエヴァンゲリオンの語源ですね。

福音書とは、その良き報せを綴った物ということです。
それを読むことで、イエスの生涯と復活の物語を知る。

つまり、善きことを聴く

おお、よき  こと  きく
といえば、斧  琴  菊  の判じ言葉と一緒ですね。

エヴァンゲリオンの正体はスケキヨか青沼静馬というわけですが、
これは、横溝ファンにしかわからないネタでした。


この4つの福音書は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの順に並べられていますが、
2番目のマルコ伝こそが、最も古く書かれた物であるということが通説になっています。
マタイとルカは、このマルコ伝をベースにして、別に伝わったQ資料のエピソードを加え成立したともいわれます。
この3書には共通点が多いことから、共感福音書と呼ばれています。
ヨハネ伝は、内容が大きく異なり、これらをテキストにした物ではないといいます。
しかし、いずれにしろ、各福音書には、それが書かれなければならない理由があったわけで、
神学者の加藤隆氏は、福音書とは、初期のエルサレム教会、すなわちペテロらイエスの弟子達を批判して、彼らの語るキリスト像から脱却した、新生真実のイエスの姿を伝えようと意図された物だとしています。

そんな思惑が渦を巻いているこのエピソード集のごく一部に

この謎の男は存在するのです。

(続く)