仇なすものの名 ① | われは河の子

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第1章 ある公僕の災難
   
  金色の目の男

 平成元年五月十二日。棚越市。
 廻されてきた書類に目を通して、慶一は怪訝な顔をした。
《エラー》
 コンピュータの回答は簡素だった。慶一はもう一度申込用紙の住所、氏名と、くっきりと押された印影を確認した。
 棚越市逆鉢1丁目2-15 鷲田進
角ばった、几帳面な文字だった。

 市民が住民票の写しを請求している。
この市役所までやってきて、自分の手で用紙に記入し、判を押し、所定の場所に提出して、今はおそらくクッションのきいたソファでじっと待っているはずである。
ご苦労さんなことだ。
 それに対してコンピュータは、その名の人物は記入された住所には存在しないと、そっけなく答えただけだった。これは棚越市役所のめざすサービスにとっての瑕瑾である。このそっけなさの埋め合わせは、やはり職員の手によってなされなければならない。慶一はそう考えた。
 何かが間違っているに違いない。コンピュータの間違いはおよそ考えにくい。自分の名前を間違える人もいるまい。そう考えると、新しく転入してきた人物が、慣れない新住所を書き間違えたと考えるのが自然だ。おそらくこの春の異動シーズンに引っ越してきたのであろう。
 操作担当に戻し、名前から検索すると確認はできるだろうが、この場合本人に聞いた方が早い。だいたいそれが慶一の仕事なのだ。少し首をすくめる仕草をして傍らのマイクのスイッチを入れた。
「鷲田さん、鷲田進さん、6番の窓口までおいで下さい」
 慶一の柔らかな声がホールに流れた。ホールには大勢の市民が順番を待っている。どの人物が鷲田さんなのか見当がつかない。壁にかかっている大きなクリスタルの時計が2時半をさしている。
 棚越市は金持ちの街ということで全国に知られている。事実、大会社の社長宅などが並ぶ梅が枝などは、国内有数の高級住宅地としてたびたびマスコミに取り上げられていた。
 市ではそんな棚越のイメージアップに努め、様々な行政的試みを実施していた。その一つが慶一の働く市役所に集約されている。
 どこの都市でも、市役所というものは無機質で味気ないものと相場は決まっているが、
棚越市は住民サービスの場という性格をそこに与えた。金持ちの街のゆとりの役所を実現した。
 職員の柔らかで丁寧な応対をはじめ、BGM、照明、空調、カーペットから椅子にいたるまでホテル並みの豪華さと快適さを誇っていた。高い税金を納めてくれる市民に対しての十分なサービスこそが市政の基本であると、常々市長が語る言葉の具体化であった。
 この政策は功を奏し、棚越市役所はまったく新しい型の行政サービスのモデルとして、全国自治体の耳目を集めた。市長も市民も鼻が高かった。その意識は現場で働く慶一たちにあってはなおさらだった。
 その慶一の窓口に一人の男が立った。
「鷲田さんですか?」
 男は無言でうなづいた。
 慶一は素早く男を観察した。30代半ばであろうか。中背だが引き締まった身体つきをしているのが、黒い背広の上からもわかった。顔は浅黒く精悍で、鉤型の鼻と薄い唇が見る物に冷たい感じを与えた。なによりその男の鋭い視線が一種の迫力を生んでいた。慶一はあれこれ人定めをしていたのを見透かされたような気がして、あわてて書類に目を落とした。
「ええと、鷲田さんですね。このご住所を確認していただきたいんですが…… ええ、住民票のご請求でしたね。じつはあなたの書かれたこのご住所に該当しないんですよ。なにかのミスとは思われますが、ご面倒でも今一度ご住所のご確認をお願いいたします……」
 慶一はそう言って、鷲田の書きこんだ用紙をカウンターに差し出した。鷲田はそれに手を伸ばした。骨ばった右手がチラリと慶一の視界に入った。
「澄川慶一さんだね?」
低い声で突然名前を呼ばれて、慶一は思わず鷲田を見上げた。
「はい、そうですが?」
鷲田は人差し指を軽く曲げ、招くように動かした。
 何事かと慶一は腰を浮かし半身を伸ばした。次の瞬間、鷲田の鋭い目がパッと金色に輝くのが見えた。
 それはとっさの出来事だった。ちょうど慶一の真上に吊るされていたシャンデリア風の照明具が、支柱の根元からポッキリと折れて、半身を伸ばした彼の頭部を直撃したのだ。
ガッシャーン!
 すさまじい音が響き渡りガラスが砕け散った。
 慶一は激しい衝撃と、目の前が一瞬赤く染まるのを感じたが、彼の意識は次の瞬間に掻き消えてしまった。