こんにちは、totoです。
今回は小学生の頃のお話。私の人間関係における価値観に多大な影響を受けた時期です。
注意書きをしっかり読んでから読んでください。(プロフィールにあります)
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小学4年生の頃、女の子の友人から束縛を受けたことがある。
その頃の子ども、特にグループに染まらないことを良しとしない女子によくある、
合言葉は「一緒に○○しないと絶交」。私はこれを束縛だと思っている。
その時はグループではなく二人組だったが、実質は変わらない。
みんな同じ。スタートからゴールまでお手手を繋いで横一列。尽く個を潰す悪の風習。
当時から私はこの暗黙の了解に違和感を覚え、無意識に忌み嫌っていた。
私は私で在りたかった。
おそらくそのせいで除け者にされた私の前に現れたのがその女の子、
まだ1人が怖かった私は藁にも縋る思いで彼女と行動を共にした。
しかし、そもそも群れる習性が嫌いな私が耐えられるはずもなく、
5年生に上がるときに関係を断ち切り以降は一言も話さず卒業した。
こうして、群れを嫌い個を謳歌することは子供の世界において異質であるということを学び、
私の心には束縛とは個を無に帰す行為であると刻まれた。
…
子どもというのはやっぱり未熟で、他者を受け入れる器がとてもとても小さいのだと思う。
だからこそ学校という社会で必ずしも肯定してくれるわけではない他者と触れ合って生きていくのだし。
ただ私は、小2の頃に軽いいじめに逢って(持ち前の気の強さでチクりまくって真正面から闘った)個を否定される側にいたり、
1人の時に読んでいた本から多様性を学んだりと、
周りよりも受け皿が大きかったんだと、今は思っている。
そして、受け皿が大きいが故に相手にも同じだけの寛容を無意識に求める。
寛容は束縛の対。
束縛されると辛く苦しいと思うのは私が持つ感情であって、誰しもがそうだとは思わない。
そもそも束縛と思わない人だっているだろうし、束縛と思っても愛情表現だと喜ぶ人も居ると思う。
この感じ方の違いこそ尊重されるべきそれぞれの個性であり多様性だ。
そしてもちろん、個の尊重の仕方も人それぞれだと思う。
小5の時にしたように、距離を取ることで相手の個を否定せず同時に私の心を守る。
これが私のやり方で、そうやって今までずっと生きてきている。
簡単に言うと、合わないと思ったら逃げる。以上。
しかし、だ。この生き方には人とのかかわりが希薄になるという弊害がある。ソースは私。
最初から相手の個を受け入れる代わりに、仲良くなるにつれ誰もがするであろう深掘りをしなくなった。
相手のことをもっと知りたい、理解したいという欲求が生まれないのだ。
逆も然り、相手に自分のことを知ってほしい、理解してほしいとも思わない。
なぜなら、深掘りのどこからが相手にとっての束縛になるかが分からないから。
「貴方の事を知っている、理解している」というアピールが個を潰す行為に成りかねない。
先に話したように、私の中の束縛は=個を無に帰す行為。
ラインの見極めが難しいなら最初から踏み込まなければいい。
そうして人との関わりが薄くなり、上辺だけの知り合いばかり。
いざグループを作れと言われたとき1人ぼっちになってしまう。
私はこれを仕方がないこととして受け入れているし、正直大きな問題ではない。
深掘りが出来る友人も5人ほどいるし、友人関係も好調。
(が、大学での恋愛沙汰でこの弊害が本領を発揮してしまった。この話は後日。)
ちなみに、このころは普通に好きな子もいた。
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次は中学の話です。
