時々電車の中で、聴覚障害の方たちが手話と言葉を発しながら、楽しそうに会話しているのを見かけます。
声が独特な感じなので、乗客はつい不思議そうに、そして少し好奇の目で彼らを見てしまいます。
かつて私は、聴覚障害者が主宰する、手話講座に参加した事がありました。
人間的にも魅力的な、当時の私と同世代の講師たち。楽しい話を交えて、参加する私たちに、手話という「言葉」や文化を教えてくれました。
その時、講師の方に聞いたエピソードです。
彼は生まれつき、耳が聞こえません。音のない世界で、コミュニケーションをとるには、字を覚える事もそうですが、“一般社会”で生きていく為に、学校では音声言語を勉強させられます。
彼はもちろん、自分の発する声を自分で聞く事ができません。
「あ」という口の形を見て覚えて、発声するように先生に指導されます。
その声が「あ」になった時、先生は褒めてくれます。
その声が「あ」にならなければ怒られたり、ぶたれたり。そうやって1文字1文字覚えて、音声言語を学習したそうです。
本来言葉は、コミュニケーションの手段であるのに、「一般的な」話す方法を学習させられる矛盾。
そして音声言語をマスターしても、笑われたり、怪訝な顔をされたりする悲しさ。
この話を聞かせてくれた方も、大柄でちょっとヒゲを生やした30代の男性です。手話を交えての言葉は、高い声で、かわいい子どものような話し方でした。
手話の講習会は、いつも笑いが絶えず、当時の私は楽しんで手話を学ぶ事ができました。
講師の方たちは、自らの辛い体験を土台にして、楽しくコミュニケーションしながら言葉を学ぶ大切さを教えてくれました。
それは、
「こんな風に学んだら、楽しいかな」とか、
「こう伝えたらわかりやすいかな」と、
色々相手の立場にたって考えてくれたからだと思います。
色々なことを自分のことして、ちょっとイメージすることができれば、きっと何ががよい方向に変わると、私は思います。
無関心は1番心を隔てる要素。
私は自分の中に、できるだけ持たないようにしています。
先日、聴覚障害の方と筆談する機会があり、当時教えて頂いた手話の「有難う」をふいに思い出して伝えたら、嬉しそうな笑顔を見れて、私も嬉しくなったので、ブログに書いてみたくなりました(^_^)
写真は、ベンチでひと休みしているバラ達です。
※正確にはバラのアレンジメントです(笑)
