昔から、可愛らしいお弁当というものはあったが
近年のキャラ弁とやらのクオリティは半端ない。
自分が母親になったとき、我が子にリクエストされたら
少々面倒だなとも思う(笑)
けれど、一生懸命作るお母さんの愛でもある。
先日、眼科に行った時のこと。
待合室のソファに腰かけていたら、近くに小学校低学年くらいの女の子と、その母親と思われる女性がいて。
女の子がふいに言った。
「ママ、今度の遠足は○怪○ォッチのじ○にゃんのキャラ弁がいい」
それに対してそのママは
「そうだね~、分かったよ~」
と、女の子の頭を撫でながら、それはそれは微笑ましい光景で。
しかし次にこう続きました。
女の子
「Aちゃんはね、キャラ弁じゃないの。キャラ弁作ってもらえないの。だから前もみんなに笑われてたの。私は笑われたくない!」
ママ
「キャラ弁作ってもらえないの?可哀相だね~、ママは○○ちゃん(女の子)が笑われないように、キャラ弁頑張るよ!」
・・・・・・・・おい、
違うだろう。
色々と私の頭の中に、???が浮かんだ。
子どもは確かに正直で、正直が故に時に残酷だったりするけれども。
キャラ弁を作ってもらえないのが可哀相だね?笑われないように頑張る??
大事なのはそこではないと、私は思うのです。
Aちゃんの詳細は、私には分からない。
事情によっては「可哀相」という言い方が正しい方向に向かう場合もある。
けれど、人のお弁当を見て笑って、可哀相だと思うのは、大いに間違っている気がする。
Aちゃんのお弁当を作っているのが、お父さんなのかお母さんなのか、そこに色々な事情がついてくるのかもしれない。もしかしたらね。
でも、一生懸命作っているものだとしたら。
可哀相という言い方は、とっても失礼。
子どもにはまだ、分からないかもしれない。
分からないからこそ
「Aちゃんがキャラ弁じゃなくても、そのお弁当を一生懸命作っている人がいるんだよ。」と、諭す必要があるのではなかろうか。
私は、お弁当に対してとても嫌な思い出がある。
幼い頃から両親が共働きで、いわゆる鍵っ子だった。
参観日に来れないお母さんに、酷い事を言って辛く当たったこともある。
自分が社会人となり働いている今となっては、お母さんの気持ちは痛い程分かるようになった。
私のお母さんは、お弁当作りがとても苦手だった。
学生時代、お弁当が必要な時は
お母さんなりに頑張ってくれていたのだけど
中学・高校になってから、特に高校でお弁当が必須になってからは、周りの友達に揶揄される事が多くなった。
お弁当の中身をじっと見られて笑われたり
それは私にとって、同時にお母さんが笑われている気がして。
とっても不愉快だった。
毎日お弁当箱を開けるのが嫌で、いちいち身を寄せあって友達とお昼ご飯を食べる意味も、よく分からなかった。コンビニ弁当を食べている人が羨ましかった。
きっと悪気はなかったのだと思う。
ただみんながどんなお弁当なのか、気になるとか。そんな感じだったと思う。
それからは、笑われているなんてお母さんに言えるはずもなく、早起きして自分で作ったりした。ついでにお父さんのも作ってあげると、喜んでくれた。
大人になった今でも、お弁当に関しては少しトラウマが残っている。
我が子が嫌な思いをしないように、我が子に喜んでもらえるように、その親心はとても分かる。私が親になっても、きっと自分のような思いはさせたくないと、思うだろうな。
けれど、人を笑うこと。
それがどんなにかっこ悪くて、恥ずかしいことか、その分別が分かる人間になってほしいとも思う。
だから、
眼科を出て、車に乗ってすぐ、あの頃抱いた不快感がよみがえってきて、いい歳して涙が出た(笑)
ママと、ママが作るお弁当が大好きな女の子が無邪気に言った話はともかく、それに対する母親の対応に、勝手ながら少々切ない思いと、ちょっとばかりの憤りを覚えた時間でした。
おわり