天正二年(1574)真田幸隆が死去すると嫡子の信綱が真田家を継いだ。翌年長篠合戦で武田勝頼軍は織田・徳川軍に敗れたが、この戦いで信綱は弟の昌輝とともに討死した。真田家の当主となってからわずか一年、三十九歳の生涯を閉じた。戦死した信綱の首級は、家臣の白川兄弟が陣羽織に包み、主君着用の鎧胴と愛刀の「青江の太刀」(重要文化財・真田宝物館所蔵)とともに信綱寺へ運び、首級と鎧胴を桜の樹下に埋葬して手厚く弔った。この場所は「墓前の桜」と呼ばれている。享保二年(1717)寺の移築に伴い、墓所は墓前の桜の位置から裏山の現在地に移され、墓石が建立された。また血染めの陣羽織と最初の墓地から出土した鎧胴は寺宝として大切に保管されている。


真田信綱は天文六年(1537)、幸隆の長子として生まれ、父病没の後三十八歳で家督を継いだが翌天正三年(1575)、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と供に戦死した。信綱の首級は家臣白川勘解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と供に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に、葬られた。その後打越寺は、信綱公
菩提所として信綱寺として改称された。享保二年(1717)、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と供に懇に弔われている。近年、夫妻の墓のとなりに昌輝の新しい墓が建立された。


真田信綱
天正三年五月二十一日没 享年三十九歳
信綱寺殿大室道也大居士
真田昌輝
天正三年五月二十一日没 享年三十三歳
嶺梅院殿風山薫大居士
中央が信綱公、左が信綱公夫人、右が昌輝公の墓。

(現地説明板より)

現地説明板は駐車場と墓所にあります。


2017.6.20