この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。市野川に突き出した部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原型を失ってしまった。
城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永二十三年(1416年)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。この城が天下に知られたのは、今から四、五百年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち、豊臣勢にせめられ、天正十八年(1590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広一万石の居城となったが、松平氏が慶長六年(1601年)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。
(現地説明板より)




2017.1.10


思いの外、写真を撮ってなかった・・・(苦笑)