この史跡は、治部大輔岩松尚純と夫人秋吟尼の墓所である。墓はいずれも五輪塔で一辺が約4m四方の土壇上に立てられているが、欠損が著しく後補されている。地輪に刻まれている銘文は次の通りである。

貞松院殿 秋吟
尚純君塚 尼君
永正八未年 明應八未
十月十五日 八月二六日
善福寺
施主

尚純は、1461(寛正二)年に金山城主岩松家純の嫡子明純と幕府政所代蜷川新右衛門の娘との間に生まれた。1494(明応三)年に家純の跡を継ぎ城主となったが翌年、権臣横瀬氏との抗争に敗れ、家督を嫡男夜叉王丸(昌純)に譲り岩松に隠居した。戦国武将の座を捨てた尚純は、静喜庵と号しその生涯を連歌の世界に生きたのである。
尚純の連歌は早くから世に表れ、奇しくも城主を追われた明応四年成立の「新撰菟玖波集」に九句も選ばれている。また、連歌師宗長の「東路の津登」に1509(永正六)年に静喜庵を訪れた宗長が、数日滞在して「両吟百韻」を詠じ、かつ「終日閑談忘れがたき事のみなるべし」とあり、その親交ぶりがうかがわれる。著書に「連歌会席式」をはじめ多くの作品があり、室町時代連歌の指導者として高く評価されている。岩松青蓮寺に伝来する自画像(県重文)は、文人尚純の風貌とその筆跡をよく伝えている。夫人秋吟尼は、佐野氏(栃木県佐野)の出身で夫とともに岩松に移り、寿宝庵主として余生を送ったが夫に先立って亡くなった。本町では、この史跡を保存するため、「全町史跡公園化事業」の一つとして「尚純萩公園」と名付け復元整備した。

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