貴方は、どう思われますか?
私は私の経験上「必然」で成り立っていると
考える1人です。
私の人生の原点は小学1年時の大病から始まりました。
大病でスポーツを小3まで禁止された私は
代償行為として勉学面で頭角を現し始めました。
反面他の級友とは歩調を合わせることができなかった私は
小学生時の担任である5/6の教師から「協調性なし」というレッテルを
貼られてしまいました。
ただ、小3の担任だけは
私の独自性に目を向けて「読書」の需要性を指摘し、
時間を大事にして生きなさいと諭されました。
そこから私の脳力開発は目覚ましく発展していきました。
中学生時代には師弟同行の体育教師との出会いから
「スポーツ劣等生」が変身しました。
中卒時の進路を母親の母校の佐世保北を希望したのですが
父の鶴の一声で平戸の「猶興館」になりました。
高校1年次と3年次は今は結婚して51年目を迎えた
家内と同じクラスでした。
(注 当時は戦後の質実剛健の時代で
今のように男女が自由に交際する時代ではなかった)
高3時の物理の教科担任から
「集中力」と「持続力」を坐禅で養うことができると聴くと、
その日に入門して坐禅の底力を体感しました。
中略
受験勉強は参禅している間もお寺の一室でやってましたので
坐禅修業のせいではないのですが
千葉大学の英文科を不合格になると、
猶興館以上に歴史のある二松學舍大学で中国語を学びました。
でも3年時になる時にそれまでちゃんと取っていた
「教育職」の単位をわざと放棄しました。
ほ
そこで、卒業すると民間会社のトヨタに就職します、
それから前出の家内と26歳の時結婚することになりました。
(注 結婚時の経緯はまたの機会に述べます)
結婚すると長女が直ぐに誕生しましたが、
その前から教職員の師弟の噂を聴いていた私は
不安を抱いたため自分も同じ土俵で働こうと決断しました。
でも、前述した通り2年次までしか教職単位はありませんでした。
だから、3年次から後の単位を取るため排水の陣で
単身二松學舍大学に戻り残していた単位を1年で首尾よく取得して
国語と中国語の教員免許を取得することができました。
しかし、それからも苦難は続きます。
社会人として5年間も遠回りして教員免許を取得したものの
その間は勉強らしい勉強をしていませんでしたので
県の「教職員採用試験」には合格できず、
猶興館卒の県教職員課長をしていた某先輩のお陰で
2年間は鹿町中、長崎北高式見分校兼長崎西高で期限付き教諭として
糊口を凌ぐことができました。
その期限が近づいた時に長崎北高の松永久磨男校長先生から
次に勤める学校を2つ紹介されました。
1つは長崎南山高校の正教諭で、もう1つは長崎日大の常勤講師でした。
調べてみると長崎日大は当時の校長先生が
私が高校時代に在籍していた猶興館の玉城亀保先生でしたので
迷うことなく「長崎日大」に決めたのでした。
普通は最初から安定する正教諭を選ぶのでしょうが、
ご縁を大事にした私流は今の私に繋がる
様々な学びの機会を与えて頂きましたので正解だったと思います。
1️⃣漢字統一テストのデジタル処理による小論文作成掲載
2️⃣明倫館創設に伴う準備段階の麗澤瑞浪高校訪問や家族同伴の寮監体験
3️⃣日本大学通信教育部長崎県支部長体験
4️⃣大型自動車免許取得
5️⃣勅使河原和風生花免許取得
6️⃣長崎日本大学中学校創設に伴う準備段階の生徒募集活動
7️⃣合気道部、軟式庭球部男子、水泳部、中学校バスケ部の顧問
などなどです。