春先から3か月通った声優養成所を終えた。
ほぼ週2回、外画吹き替え、ナレーション、演技のレッスン。
終わってみると、とても身体が楽だから緊張感があったのだろう。
事前にテキストや吹き替え映像を貰っている場合は、チェックして練習してから行く。その繰り返しはとても勉強になり、この期間受けたオーディションは合格率が高かったからこの緊張感はとても良かったのだろう。
表現者の身体で居続ける重要性を感じた。
そのレッスンの中で、適度にアドリブを入れる演技レッスンがあった。
合図があるとアドリブを入れる、というもの。
自分の番になり、演技を終えると質問が相次いだ。
「アドリブ芝居をずっとやってたんですよね?」
「なんで、相手に合わせて芝居が出来るんですか?」
僕の過去をご存知の方ならお分かりになると思いますが、台本に書かれた事以外基本やってはいけない劇団に長く居たからアドリブ芝居をやった事はなかった。
しかし、悲劇であっても喜劇の要素は必要だと思っていたし、一言しかない役であっても、その役を大きくし面白くするのは役者次第だと思っていたから怒られつつもセリフを増やすトライをしていた。
そして、大きい劇場の演技ばかりではなく小さい空間でやる演技も習得していかないと映像や様々な場面で応用が効かなくなると思っていたから、劇団を飛び出してオーディションを受け小劇場に出て、そこで新劇批判でボコボコに打ちのめされつつも、価値観を否定されつつも、相手に合わせる演技の習得を心掛けていた事が幸いしたのだろうと思う。
そして、一緒にレッスンを受けていた方からこんな事を言われた。
「梶野さんと芝居をするのはやりやすい。拾ってくれるし、ちゃんと会話をしてくれる。ボランティアで来てもらいたい。」
その時もなぜ今の演技スタイルになっているのか、先輩からのアドバイスを交えて話したのだけれど、結局のところ、舞台鑑賞や映画、テレビを観て素敵だと思う方は、その場で産まれた動機を元に演技をしているという共通項があると説明しているうちに分かった。
セリフは台本に書かれているけれど、それは相手のセリフや動作、環境、状況があるから生まれるもの。なのに、役者は先回りして演技をしてしまいがちになる。
なぜか?
「上手く見せたいから」が大きいのではないだろうか?
プライドが大きく作用しているのではないだろうか?
僕を含め、承認欲求が高い人が演劇界に多く集まって来るように思う。
そして暗い過去をもつ人も何故か多く集まるようにも思う。
人の目を惹きつけるパフォーマンスをするなら、それぞれのパワーを発揮すべきだろうけれど、対話を重ねる演技に関しては、違うエネルギーが必要なのではないだろうか。
「本を読めば良い役者になれる」と言われた事が多かった。ギターやってる暇あったら本を読めと良く言われた。
戯曲から始まるわけだから、読解力は当然必要だと思うのだけど、本を読める人イコール良い役者なのか、ずっと疑問だった。
役者にとって大切なのは対話力ではないだろうか?
勿論これも「対話さえ出来たら」という事ではなく、大切なのは「台本の世界観の中で対話」。
その為にはいろんな素養が必要なのは言うまでもない。
やるべき事が多すぎる…。
