「邪馬台国=インドネシアのジャワ島説」はこちら♪(^ー^)b

 

「邪馬台国」の語源については様々な説があるが、5世紀、インドへ渡った中国の僧侶・法顕

は『仏国紀』の中でジャワ島の事を「耶婆提国」と記している。ジャバダイコク、即ち邪馬台国。

これはサンスクリット語で「大麦の島」を意味する「Yavadvipa」の漢字音訳で、「ヤバダイ・ヤマタイ」と発音される。

また、「魏志倭人伝」に「海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは

連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである」と記載されている事から、

邪馬台国は海に囲まれた大きな島の上に存在すると考えられ、山々も多いとされている。

「邪馬台国から東へ千里海を渡ると別の島に行ける」という記述もある。

更に、「楽浪郡の境界から1万2千里も離れている」と複数の史書に明記されており、中国より遥か彼方に存在する事になる。

漢魏の1里は420m程で、1万2千里だと5千km余りとなる。ソウルからジャワ島までの距離は丁度5千kmである。

また、不弥国から「南へ水行二十日」で投馬国に、更に「南へ水行十日陸行一月」で邪馬台国に至る、とあるから、

不弥国から南に一ヶ月は航行するのであり、不弥国が北九州だとすれば邪馬台国は九州の範囲に収まらない。

「邪馬台国ジャワ島説」を唱えた内田吟風氏は「古代中国人は、朝鮮半島から東南アジアの熱帯の島々までにいた

海洋民族を倭と呼んでいたのである。倭が日本列島の事を指す様になったのは『隋書』以降の事」としている。

更に「魏志倭人伝」は、邪馬台国の人々は「手掴みで飲食し、裸足で生活し、衣服もただ

結び束ねているだけで殆ど縫っていない」という原始的なライフスタイルであるとしている。

国語学者の大野晋氏も「日本語とスリランカ北部のタミル語の同祖説」を提唱したし、古代人の交流範囲

が物凄く広範囲だった事も分かっている。例えば、法顕の乗った船は二百人乗りという大型船だったらしい。

古代アジアの海洋民(海人族)は立派な船で航行していたのであり、その船に乗って交易活動を

していた「倭人」の商圏は、東南アジアから中国、朝鮮半島、日本列島、インドへと繋がっていた。

「魏志倭人伝」の一支国の説明で「南北に市糴(交易)す」という表現

があるが、東南アジアの多島海の人々は今も「南北に市糴」している。

弥生時代当時の東南アジアでは、稲・雑穀を栽培し、青銅器を作り、甕棺で埋葬するサフィン文化が栄えていた。

同じ頃に朝鮮半島南部や九州北部や南インドでも甕棺葬が大流行しており、これらの流行が東アジア~

南インド沿岸の地域で同時期に起きている事は、海の道でこれらの地域が繋がっていた事を示している。

東南アジアからの南方系モンゴロイドの遺伝子が現代の沖縄の人に認められる事も最近

のミトコンドリアDNAの解析(アリゾナ大学の宝来聡氏の研究)から明らかとなった。

沖縄で見られる眉がはっきりした目鼻立ちが良い美人は、東南アジアで見られる二重瞼で目鼻立ち

がくっきりした美人に似ている。古代インドネシア人は黒潮に乗って日本に到達したのである。

卑弥呼を含む邪馬台国の倭人が南方系海人族である事は間違いない。

シャーマン(巫女)卑弥呼の使う「鬼道」こそ日本神道が成立する以前の「古神道」であり、これもジャワ島に由来する。

「魏志倭人伝」には「倭地温暖、冬夏食生菜」と記されており、

邪馬台国は一年を通して温暖な気候で、生菜食をしていた事が分かる。

また、「男子無大小皆黥面文身」とあり、男子は大人も子供も顔や身体に入れ墨を入れていたという。

東南アジアでは現在も入れ墨をする習慣が残っている。これは海洋民族

故に素潜りで漁をする際に鮫やウミヘビを避ける為だと考えられている。

熱帯のジャワ島は「魏志倭人伝」が語る倭国の気候や倭人の風習と全く同じである。

●「朱丹(赤い染料)を身体に塗っていた」とも記されているが、これはヘナという天然植物の染料で顔

や手足に模様を描く東南アジアに古代から伝わる風習で、今日でも結婚式で花嫁はヘナのタトゥーを施す。

ヘナで髪を染めると髪が痛まず色落ちもしないので現在の日本でも白髪染めとして人気がある。

●「魏志倭人伝」によると邪馬台国の人々は、「海に潜って魚介類を獲り、暮らしていた。魚介類、肉、
野菜、酒も嗜み」「竹や木製の食器を使う」「長寿で80、90くらいである」「ショウガや橘、山椒、
ミョウガはあるものの、それらを賞味する事を知らない」ともある。これらも全て東南アジアの風習。

●「魏志倭人伝」には「倭人は海に素潜りして魚を捕る」「倭は小島が点々とした所である」「一夫多妻制で、

女の人は嫉妬深くない」「女性の王を立てる」とある。邪馬台国の文化・風俗は南方、東南アジアの影響が強い。

「南至邪馬台国水行十日陸行一月」の記述通りに進むと南の海の果て、一説にはフィリピンの東の海上に辿り着いてしまう。

また、「倭国は洛陽(晋の首都)からの距離は一万七千里」ともある。15世紀に朝鮮半島で

描かれた世界地図の「混一彊理歴代国都之図」にも日本列島は本来の位置より遥か南に描かれている。

「親魏倭王」の金印が出土すれば邪馬台国の位置比定の決定的な証拠となる。

●結論。「邪馬台国はインドネシアのジャワ島」。
 
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-bce8.html
●「日本人のルーツはインドネシア人だった」
http://indonesiajijyou.blogspot.jp/2013/08/blog-post_31.html (その1)
http://indonesiajijyou.blogspot.jp/2013/08/blog-post_3.html (その2)
http://indonesiajijyou.blogspot.jp/2013/08/blog-post_16.html (その3)
http://indonesiajijyou.blogspot.jp/2013/08/blog-post.html (その4)
 

●神武東征は史実であり、邪馬台国の東遷を表わしていると言う人がいる。 

234年に磐余彦尊が日向(宮崎県)から東征に出発。東征のルートは、高千穂(宮崎県)→宇佐市(大分県)

→北九州市(福岡県)→安芸郡(広島県)→岡山市(岡山県)→東大阪市(大阪府)→中河内郡(大阪府)→

泉南市(大阪府)→和歌山市(和歌山県)→新宮市・熊野市(共に和歌山県)→吉野(奈良県)→宇陀(奈良県)。

そして241年、神武天皇建国。神武天皇の東征を支えたのは「八咫烏」と呼ばれた賀茂氏(陰陽道)の「賀茂建角身命」。 

熊野神社の社紋も「3本足の烏」で、東征の道筋は今では「熊野古道」として残されている。

八咫烏は賀茂氏の集団。日本書紀によると、初代から4代までの天皇の後ろ盾は賀茂氏(八咫烏)が務めて

いる(5代天皇からは尾張氏がつき、崇神天皇の辺りからは物部氏が天皇家の後ろ盾になっている)。

これらも面白いから「北斗サーガ」に生かそうぜ♪(^ー^)b