高岡城の歴史

高岡城を築いた「前田利長公」について述べておかなければなりません。

利長公は 前田利家公の長男として生まれ(母親は「まつ」様です)、戦国時代の動乱期を生き抜かれました!

豊臣方に属していた時期が長くあったので、関ケ原の戦い以降も 徳川からは厳しく監視されていたことでしょう。

 

妻は、織田信長の娘で「永姫」ですが、男の子がいなかったので、利家公の4男で(異母弟)の利常公に家督を譲って、自らは1605年に富山城に隠居しました。

 

もしも富山城が1609年に大火に見舞われていなければ、高岡城は無かったかもしれないのです!

 

火災で富山城を失った利長公は、一時避難的に「魚津城」に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野(現在の高岡市)に築城の許可を貰う。

 

利長は、わずか半年間の突貫工事で高岡城を建築させたと言われます。(高山右近が城の縄張り設計にたずさわったと言われています)

 

1609年9月13日、利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城した。

殿閣は先代利家豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。

しかし、1614年(慶長19年)5月20日に利長は死去(享年53)し、隠居城として使われたのはごく短期間であった。

その翌年の1615年元和元年)には一国一城令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となった(その代わり加賀国小松城を築くことがゆるされた)。

 

しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持された。

これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様であった。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋(定塚町)を移転して目隠しにしたといわれる。

また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられている。

2006年平成18年)4月6日、高岡城は日本城郭協会により「日本100名城」に富山県内から唯一選ばれた。

 

【城の構造】

は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の五つからなるが、現在では「御城外」とされている小竹藪や梅林(当時の郭名は不明)も、これに加えるものと考えられている。

今なお築城当時の濠塁をほぼそのまま残しており、総面積の約21万m²(71,261坪)の内、約3割(24,400坪)が人工である。

本城の縄張りは高山右近によるものとするのが従来の通説であるが、近年、富山城とともに聚楽第型に分類し、右近が手がけた高槻城船上城などの縄張り手法との比較から、それを疑問視する説も提示されている。

廃城前に天守や櫓などが建てられていたかどうかは定かではなく、1612年(慶長17年)に写したとの記述のある現存最古の高岡城図には、天守予定地と目される本丸北隅には材木蔵と記されており、前田利長が高岡へ入城して3年後の時点ではいまだ天守は築かれていなかったものとみられる。建築遺構は現存せず、石垣の一部や井戸が残るのみである。

 

高岡古城公園

高岡城跡は、第17大区長服部嘉十郎らの尽力により1875年明治8年)に「高岡公園」として指定された(のち「高岡古城公園」)。

現在、公園内には射水神社高岡古城公園動物園高岡市民会館高岡市立博物館高岡市民体育館などの施設がある。高岡市立中央図書館も二の丸跡にあったのだが、2004年(平成16年)にオープンした高岡駅前にあるウイング・ウイング高岡に移転した。

1965年昭和40年)1月1日に県史跡、1967年(昭和42年)10月7日に県定公園に指定され、2008年(平成20年)より水濠や本丸御殿の遺構などの学術調査が行われた。