胸を張ってエントリー

かつてトップ・ギアという英国の人気テレビ番組がありました。3人の中年オヤジが好き勝手言いながら車を紹介する番組です。

その名物司会者の一人、ジェレミー・クラークソンポルシェのエントリーモデルであるケイマンという車種について語っていたセリフが忘れられません(うろ覚え)。

「ケイマンを買うなんて信じられない。これで街中を走るなんて、大声で俺は人生に失敗した!と叫んで回るようなものだ。」

まあ、こんな物言いで人気を博していたオッサンなので、もしケイマンオーナーの方がいてもスルーして下さい。

曰く、(少なくとも当時の)ケイマンはポルシェのフラッグシップである911の完全なる下位互換だというのです。

「ケイマンで得られるものは、911で全てそれ以上のものを得られる、ケイマンで得られるのは911を買えないという惨めさだけだ」というような論調です。

奥ゆかしき日本人には理解できない攻撃的コメントですが、感情を排して聞くとこれはエントリーモデルがやってはならない事を説くエピソードだと言えなくもありません。

つまり、エントリーモデルとは単なる劣化コピーではなく、他の部分は犠牲にしてもある部分においては間違いなく“本物”を味わえるべきであるという事です。

そして機械式時計の世界において、様々な経験を持つ老舗ブランドは、その辺りを実に上手くやってのけていると思うのです。

ここで、良いエントリーモデルの条件を思い出しておきましょう。

1. ブランドの魅力を十分に伝えている
2. 納得感のあるコスト低減が図られている
3. 中核モデルに対して有意に安価である


タグホイヤーの例
ロレックス、オメガと見てきましたので、タグホイヤーも外せません。

本当のエントリーラインにはクオーツモデルを用意しているタグホイヤーですが、このブログは機械式時計しか扱わないつもりなので、機械式のエントリーモデルを見てみましょう。

Formula One Calibre 5 / TAG HEUER 
出典:https://www.tagheuer.com

RefWAZ2113.FT8023
ケース径:41.0mm
ケース厚:12.2mm
重量:-
ケース素材:ステンレス・スティール
風防:サファイア・クリスタル
裏蓋:ステンレス・スティール
ベルト素材:ラバー
バックル:ピンバックル
防水性:200m
価格:170,000円(税抜)

タグホイヤーの機械式で最も価格が抑えられているのがフォーミュラ1のラバーストラップ・モデルです。

バリエーションとしては色違いやブレスレットタイプが豊富に展開されていますが、その中でもこのラバーストラップは1万円程低い価格が設定されています。

これが思いの外素晴らしいんですね。

丸みのあるウェッジ型ラグが卵形のシルエットを作り、そこに力感のあるベゼルを合わせて、漆黒のダイアルにシルバーの針やインデックスを配したデザインは、シャープでスポーティ。

個人的にはこのフォーミュラ1を特徴付ける独特のシルエットが秀逸だと思っています。

41mm径とスポーツウォッチらしい大きさですが、ベゼル幅がしっかりあるので腕に乗せてみるとそれほど大きくは感じません。

出典:https://www.tagheuer.com

デザインもそうですが、仕上げもレベルが高いです。ケースのエッジはしっかりと立っており、ベゼルのヘアライン加工や、サテンとポリッシュを織り交ぜたケース仕上げも安っぽさはありません。

またダイアルに関しても、アプライドのインデックスに、長さの適切なバーハンズ、カウンターウェイトにロゴをあしらった秒針など、ひと目みて“いい時計”と分かる仕上げです。

仕上げのレベルに関しては、上位モデルと比べても何ら遜色ないと言えるでしょう。

タグホイヤーらしいアクティブなデザインに加え、仕上げのレベルも上位モデルに劣らず、SSケースに200m防水と実用性も高いです。

ブランドの魅力を十分に伝えているかという点については文句なしにクリアしてますね。

型番:Calibre 5
ベース:SELLITA SW 200
巻上方式:自動巻
直径:25.6mm
厚さ:4.60mm
振動:28,800vph
石数:26石
機能:センター3針デイト
精度:-
PR:38時間

搭載するCalibre 5は元はETA 2824-2ベースでしたが、2010年問題以降どこかのタイミングでSW 200ベースに切り替わっています。

このエボーシュ採用によってコストを抑えている事は間違いありません。

タグホイヤーはベースキャリバーを公表しない芸風のブランドで、スウォッチのライバルでもあるLVMHグループの一員ですから、ETA供給を断たれた(若しくはそれを見越した)というのが実情でしょう。

タグホイヤークラスのブランドのエントリー向けムーブメントとしてはここ20年では一般的な機械といえますが、直近のETA C07系に代表されるような入門機高性能化の流れを鑑みると、ムーブメントはやや時代遅れになりつつあると言わざるを得ません。

スウォッチグループでは10万円を切るようなレンジでさえCOSC認定のC07系を投入していますから、ムーブメントの性能面ではライバルにかなり先行されています。

リシュモンボーマティックを軸にこれに対抗しつつあると見ていますが、LVMHはどうでしょう。Calibre 5 Isograph がエントリーモデルにまで採用されて来なければ苦しいように思います。

出典:https://www.tagheuer.com

フォーミュラ1で私が気になるのはその位置付けです。200m防水逆回転防止ベゼルとくれば、それは普通ダイバーズウォッチです。しかし、自動車レースを思わせる名前が付いています。

タグホイヤーのダイバーズといえば、300m防水のアクアレーサーがありますよね。何なのフォーミュラ1って?

HPの紹介にはこうあります。

“スピーディな毎日のためのカジュアルなスポーツウォッチ。”

何でしょう、全く分かりませんね。スピーディな毎日という謎の言葉は無視すると、カジュアルなスポーツウォッチという事か...

いや、スポーツウォッチなんか全部カジュアルだし、そうなると要はスポーツウォッチという事かな…

タグホイヤーってほぼ全部そうでしょ?

つまり、タグホイヤーを手軽にかつ包括的に楽しめるコレクションという事ですかね。言い換えればエントリーモデルそのものですな。


価格は税抜17万円30-50万円がボリュームゾーンで、自社ムーブ搭載モデルは60-80万円くらいで展開するタグホイヤーの中では、エントリーモデルとしては程良い値付けかと思います。

シンプルな3針デイト設計にエボーシュ採用で価格を抑え、地味にラバーストラップも低価格に貢献しています。

しかしダイバーズ並みの防水性を備えているので、ラバーストラップ採用は理に適っていますし、ことフォーミュラ1についてはブレスよりも格好いいと思います。

それなりに見栄えするブレスを作ろうとするとどうしても価格に跳ね返りますので、そこを潔くラバーストラップにしている所は利口だと思います。


タグホイヤーはハイエンドの自社ムーブ搭載カレラでもラバーストラップを使いますから、むしろタグホイヤーらしいチョイスと言え、コスト削減しているというマイナスイメージはありません。

そんな訳で、私はこのフォーミュラ1にかなり好意的です。

タグホイヤーといえばやっぱりクロノグラフでしょ!と言われればそれまでですが、使わない、デカ厚、高いの三重苦を思えば、シンプルなスポーツウォッチとしてこの時計はかなり良いです。

特に見た目が好きです。ひと目見てラグ・ベゼル・文字盤のバランスが良く、仕上げも悪くなく、ラバーストラップも似合います。

1. ブランドの魅力を十分に伝えている
2. 納得感のあるコスト低減が図られている
3. 中核モデルに対して有意に安価である

この三つのポイントをかなり高い水準でクリアしているのではないでしょうか。

<Formula One Calibre 16 / TAG HEUER>
出典:https://www.tagheuer.com

因みにクロノグラフのエントリーはというとやはりフォーミュラ1です。こちらは税抜28万円となり、さらに44mm径まで拡大するので、ちょっと私の手には負えません。


ジンの例
556 I / SINN SPEZIALUHREN 
出典:www.sinn.de

Ref:Art-Nr. 556.010
ケース径:38.5mm
ケース厚:11.0mm
重量:65g
ケース素材:ステンレス・スティール
風防:サファイア・クリスタル
裏蓋:サファイア・クリスタル
ベルト素材:カーフレザー
バックル:ピンバックル
防水性:20気圧(200m)
価格:170,000円(税抜)

久々登場のMinority’s Choice 大好きジン特殊時計です。数々の特殊技術で一部の時計オタを歓喜させるジンですが、彼らのエントリーモデルはどんなものでしょうか?

556コレクションがそれに当たりますが、ぱっと見の印象はジンっぽくないなというものです。

シンプル&クリーンな見た目はスタイリッシュなんですが、ツール感の強いジンの代表モデルと比較すると、綺麗すぎます。

さらにはジン最大の特徴というべき特殊技術(テギメント加工、Arドライテクノロジー等)が何も実装されていません。これは正直物足りないです。

ただ、全面サテン仕上げのエッジの立ったケースや全く反射のないフラットな風防、視認性抜群の明瞭なコントラストがついた文字盤(もちろん夜光もバッチリ)など、よくよく見るとやっぱりツールウォッチ然としています。


ブランドの魅力を十分に伝えているかというと、やや疑問です。特にデザインはキレイ過ぎて、もっと鉄と血の匂いがしても良さそうなもんです。

だけど、それを脇に置くと格好良いんですよね。ジンらしからぬスタイリッシュさがあって、以前絶賛した日本限定856フリーガー(#73)に通じるイケメンです。

これがブレスレットモデルになるともう少しジンっぽくなるんですが、単体として見た場合、カーフレザーの方が個人的には好みです。

どうしても3連ブレスレットって垢抜けないイメージになりがちなんですよね。

更には、サイズが秀逸です。38.5 x 11.0mmというのは使い勝手が良いです。ここに関してはジンの他のモデルよりもはっきりと優れた点だと思います。

出典:www.sinn.de

型番:SELLITA SW 200-1
ベース:-
巻上方式:自動巻
直径:25.6mm
厚さ:4.60mm
振動:28,800vph
石数:26石
機能:センター3針デイト
精度:-
PR:38時間

日本HPではETA 2824-2搭載となっていますが、ドイツHPではセリタとなっています。恐らくセリタへ移行しているのでしょう。

ジンは比較的スウォッチとうまくやっていると思っていたのですが、やはりコスト面の問題でしょうか。

今やミドルクラスの入門機はセリタが標準になっているという事ですね。旧式化は否めませんが、信頼性とコスト面の優位性はメーカーとしては魅力です。

もちろん性能も一定のレベルにある事は証明されていますから、価格帯を考えれば文句を言うような機械ではありません。


税抜17万円という価格は、フォーミュラ1と全く同じです。556も200m防水なので、性能面でもほぼ遜色ないといえます。

一般的なブランド力という意味ではタグホイヤーが圧倒的に上回ります。見た目は好みの問題です。

ただ良いエントリーモデルの条件に照らすと、フォーミュラ1の方が優れたパッケージングと言えるでしょう。

やはり特殊技術の実装がなく、デザインコードも独自色のある556は、ジン特殊時計の雰囲気を味わうという意味では物足りないと言わざるを得ません。

まあ単体としては格好良いので、デザインが気に入って買うというのは全然ありだと思います。特殊技術なしという事はオーバーホールもどこでも出来るという事ですしね。


ジンはいわゆる並行差別(正規優遇)のあるメンテナス体制なので、特殊技術入りのモデルはメンテナンスを考えれば正規推奨になります。が、556に関しては町の時計屋さんでオーバーホールは対応可能(部品交換等なければ)です。

並行価格は12万円くらいまで下がりますから、そうするとバリュー面でも魅力が出てきますね。


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こうして見るとやはりタグホイヤーはそれなりに練られたモデルをエントリーに持ってきています。特にデザインはタグホイヤーらしさを忘れずに独自性もあるので、素晴らしいです。

1ブランド1本主義者Minority’s Choice としてはむしろこのフォーミュラ1を代表にしても良いんじゃないかと思えるほどです。