施設はバリアフリーでなければならない | 「駅前デイサービス みのりの家」のホームページ

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障害者や高齢者の施設は「バリアフリーでなければならない」という幻想はないだろうか。

特に○○○にいる○○○とか△△△のような、いわば現場の介護の経験はないが介護に携わる人に限ってそういう傾向にあるような気がする。

しかし、それは○○法や○○法など法律の縛りによるものであり、それが安全に配慮されたものであることは百も承知している。

...
法治国家である以上、その法に守られて我々の生活が成り立っていることも理解はしているが、しかし、たかが紙きれの法律だけで人の生活のすべてが保たれるのだろうか・・・

もちろんバリアフリーは便利であり否定する気はない。
それが日常生活に必要不可欠な人がいることも理解している。
しかし一方でバリアフリーが逆に日常生活動作を低下させるという事例があることも事実である。

平らで車椅子が使いやすいから、歩ける人が車椅子に乗せられている光景を見たことがないだろうか。
押している方も乗っている方も楽だし、早い・・・ほんとにそれで良いのだろうか?

人生がバリアフリーではないように、場所だってどこでもバリアフリーなわけではない。
特に昔からの一般の住宅なんて、段差や障壁だらけである。

こういった基準が簡単に施設ができない(特に待機児童が解消できない都会の保育所関係は切実)理由の一つにもなっている側面もある。

ある研修でも述べていた人がいた。
「段差を乗り越えられる能力があるならあえてバリアフリーにしなくても、その能力を維持していく環境にあることが重要だ」と。

極端にいえば、そもそも人の暮らしは不便なものであるはず。
不便の上に成り立っていると言ってもいい。
不便さや住みづらさ・・・も含めてその人の暮らしがあるのだ。

便利さを追い求め、置き去りにしたり忘れたりするものもある。
我々は不便さと生きづらさを頭と体を使って知恵で補ってきたし、
これからもそうしていかなければならないはずだ。

何もかも行きとどいた最先端の「施設」では「工夫する」という労力が失われてしまう。
たしかにその労力が必要なければその分違う「業務」にあたれるから効率はいい。

人は工夫をするからそこにささやかながらも幸せや喜びがある。
百歩譲って入所施設ならまだしも、通所の利用者はデイが終われば段差や障壁のある自宅へ帰るのである。
安全神話だけでバリアフリーでなければならないのは職員や役人の都合ではないのか?

もし、ここに段差があって危ない、でもそれを意識できて危険が回避できる能力があるのなら、それは維持継続されなければならない。
もし、回避できる能力が無くなったとしても、誰かが手を差し伸べて回避できればそれでいいのではないか。

バリアフリーとかユニバーサルデザインとか言う前に一人一人の心のバリアがフリーできるようにならなければならないし、誰もが便利に使える物より、その人が心地よく使える物の方がいい方に決まっている。

役人は決まって「使い勝手」や「効率性」を重視するが、お年寄りに「不自由なく便利だねえ」と言われるより「不便だけど、いい所だねえ」と言われたい。

図面とにらめっこしながらそんなことを考えている。

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