第一巻の著者序文

 全集第一巻におさめられた著作は、著者の活動の初期に書かれたものであって、レーニン主義のイデオロギーと政策との仕上げは、当時まだおわっていなかった。このことはいくぶんかは本全集の第二巻にもあてはまる。
 これらの著作を理解し、これを正当に評価するためには、まだ完成したマルクス主義者=レーニン主義者になっていなかった、若いマルクス主義者の著作として、それらを見ることが必要である。だから昔のマルクス主義者がもっていたが、のちには古くさいものになった、いくつかの命題の影響(それはのちになってわが党によって克服された)が、これらの著作にのこっているのは当然である。私が念頭においているのは、農業綱領の問題と社会主義革命が勝利する諸条件の問題という二つの問題のことである。
 第一巻からわかるこように、(『農業問題』という論文参照)、著者は、当時、地主の土地を分割して農民の所有にするという立場をまもっていた。農業問題が審議された統一期成党大会では、ボリシェヴィキ代議員の実務活動家の多数は、分割の立場に味方し、メンシェヴィキの多数は公有化に賛成したが、レーニンとボリシェヴィキ代議員の他の部分とは土地国有化に賛成した。そして三つの提案の斗爭過程で、党が国有化の提案を採用する望みがないことが明らかになったのちには、レーニンその他の国有化論者は、大会で分割論者の言葉に賛成した。
 分割論者が国有化に反対してもちだしたのは、つぎのような三つの考慮であった。すなわち(イ)農民は地主の土地をもらって財産にしたがっているから、地主の土地の国有化をみとめないであろう、(ロ)農民は国有化ということを、当時すでに農民の個人的所有になっていた土地にたいする個人的所有権を廃止する方策と考えるであろうから、国有化には反対するであろう、(ハ)国有化にたいする農民の反対を克服することができるような場合でさえ、われわれマルクス主義者は、やはり国有化を主張してはならない、というのはブルジョア民主主義革命が勝利したのちには、ロシアの国家は社会主義国家ではなくブルジョア国家になるであろうが、大きな国有地がブルジョア国家ににぎられていることは、ブルジョアジーを法外につよめてプロレタリアートの利害をそこなうであろうから、というのがそれであった。
 このばあい分割論者が出発点としたのは、ボリシェビキをふくむロシアのマルクス主義者のあいだでみとめられていた、つぎのような前提であった。すなわちブルジョア民主主義革命が勝利したのちには、革命の中断する時期が、勝利したブルジョア革命と将来の社会主義革命との中間期が、いくぶんながいあいだやってくるであろう。そして、その期間に資本主義はもっと自由に、もっと力ずよく発展する可能性をえるであろうし、資本主義は農業の分野でもひろがるであろう、階級斗爭ははげしくなり、全面的に発展するであろう。プロレタリア階級は数的に増加して、プロレタリアートの自覚と組織性は十分な高さにたかめられるであろう。そして以上がみなおこなわれたのちに、はじめて社会主義革命の時期がやってくることができる、というのがそれであった。
 注意しておかなければならないのは、二つの革命のあいだにはながい中間期があるというこの前提は、大会では、だれからのどんな反対にもあわなかったということである。そのうえ国有化の支持者および分割の支持者も公有化の支持者も、ロシア社会民主党の農業綱領は、ロシアでこんご資本主義がもっと力づよく発展するのを促進しなければならないと考えていた。
 レーニンが、当時、ロシアのブルジョア革命は社会主義革命に成長転化するという立場を、すなわち永続革命の立場をとっていたことを、われわれ実際活動家のボリシェヴィキは知っていたであろうか。そうだ、知っていた。われわれは、『二つの戦術』(一九〇五年)〔第四分册〕によっても、また「われわれは永続革命に賛成する」、「われわれは中途には立ちどまらないであろう」と彼がのべた、一九〇五年の『農民運動にたいする社会民主党の態度』〔第四分册〕という彼の有名な論文によっても、これを知っていた。だが、われわれ実務活動家は、われわれの理論的素養がたりなかったために、また実務活動家に特有な理論的問題にたいする軽率さのために、この問題を深く探究しなかったし、また、この問題の重要な意義を理解していなかった。周知のようになぜかレーニンは、ブルジョア革命の社会主義革命への成長転化の理論からくる論拠を、当時は展開しなかったし、国有化を基礎ずけるために大会でこれをもちいもしなかった。彼がこの論拠をもちいなかったのは、彼がこの問題はまだ熟していないと考えていたから、また大会に出席していた実務活動家のボリシェヴィキに、ブルジョア革命の社会主義革命への成長転化の理論を、理解してうけいれる準備がととのっていると期待していなかったからではなかろうか。
 しばらくたって、ロシアのブルジョア革命が社会主義革命へ成長転化するというレーニンの理論が、ボリシェヴィキ党の指導方針となったとき、やっと農業問題にかんする意見の相違は党內にはなくなった。なぜなら独特な発展条件が、ブルジョア革命の社会主義革命に成長転化する地盤をつくりだしているロシアのような国では、――マルクス主義党は、土地国有化の綱領以外には、どんな他の農業綱領ももつことができないことが明らかになったからである。
 第二の問題は、社会主義革命の勝利の問題にかんするものである。第一巻からわかるように(『無政府主義か社会主義か』参照)当時、著者は、マルクス主義者のあいだに知られていたテーゼにしたがっていたが、それによれば、社会主義革命が勝利する主要な条件の一つは、プロレタリアートが住民の大多数をしめていない国では――社会主義の勝利は不可能であるというのであった。
 このテーゼは、当時はボリシェヴィキをもふくむロシアのマルクス主義者のあいだでも、おなじく他の国々の社会民主党のあいだでも、一般にみとめられたものと考えられていた。けれども欧米における資本主義のその後の発展、帝国主義以前の資本主義の帝国主義的資本主義への推移、最後に、レーニンの発見した種々の国々の政治・経済的発展の不均等性の法則は――このテーゼが新しい発展条件にすでに一致していないこと、資本主義がまだ最高の発展度にたっしていないで、プロレタリアートが住民の大多数をしめてはいないが、プロレタリアートがこれをたちきることができるほど資本主義の戦線が弱いばあいには、個々の国で社会主義の勝利することがまったく可能であることをしめした。こうして一九一五-一九一六年のレーニンの社会主義革命の理論が生まれたのである。周知のようにレーニンの社会主義革命の理論は、社会主義革命はかならずしも資本主義がもっとも発展している国で勝利するのではなく、資本主義の戦線が弱く、プロレタリアートがこの戦線をたちきることが比較的容易であって、かつ、すくなくとも資本主義の中くらいの発展水準が存在している国で最初に勝利するであろうということを出発点としている。

第一巻にあつめられた著作に関する著者の注意は、これで全部である。                                                        イ・スターリン
    一九四六年一月