②の続きです。


父親が亡くなり、バタバタとお通夜や葬儀の準備が始まりました。
この辺りのことは断片的にしか覚えていません。

42歳という若さで亡くなったこともあり、
父親のお通夜と葬儀には、葬儀場の方も驚くくらい多くの人が来て下さいました。

同じ町内に住む小学校からのわたしの友達や、中学に入ってから仲良くなった友達も、
励ましの手紙を書いて持ってきてくれる子もいました。
(友達はほとんどの子が携帯電話を持っていたのでメールでやり取りしていたみたいですが、
わたしは親が持たせてくれなかったので、手紙という手段だったのです。
わたしが携帯電話を買ったのは大学に入ってからでした)

友達の心遣いは何よりも嬉しかったです。


父方の親戚が多いので、もう顔も覚えていないようなおじさん、おばさんにもたくさん声をかけられました。

「こんな小さい子たちを遺して‥‥しぃちゃん(わたし)もカイくん(弟)も可哀想に」

と言われるたび、わたしたちは可哀想なのかと思った記憶があります。

でも、わたしも逆の立場なら、そのおじさんたちと同じことを言ったかもしれません。

まさか亡くなった当人が毎日家で娘を怒鳴り、
殴りつけていたなんて思ってもみないでしょうから。



(修復できないほど崩壊してしまった家庭なら、
たとえ死別だとしても、その原因が解消される方が子どもにとって幸せだとわたしは今でも信じています)




長かった葬儀が済んで親族のみで火葬場に移動し、遺体を荼毘に付しました。

父親の骨は長いお箸でつまむとボロッと崩れ、

ああ、人は死んだらこうなるんだ、と漠然と思いました。


解散するとき、叔母(父親の姉)が、

「これからはわたしのことをお父さん代わりに思っていいんだからね。
何でも相談して、頼ってね」

と言ってくれました。

「うん、ありがとう」

と言ったものの、わたしは半信半疑でした。


バリバリのキャリアウーマンである叔母は
いつもわたしと同年代の自分の娘や息子(わたしにとっては従兄弟)を比べ、
ことあるごとにマウントをとってきていたので(従兄弟たちは無邪気なものでしたが)
素直に甘えることなど考えられませんでした。


こうやって自分を振り返って見ると、
中学1年にして、大人に対しては基本的に歪んだ見方しかできない、
そんな子どもだったと思います。





忌引きの期間が終わる頃、世間はもう夏休みでした。
8月の頭に、
バスケ部の練習と期末テストの結果を取りに、久しぶりに中学校へ行きました。

担任の先生から各教科のテストをまとめて返されました。
勉強しか取り柄のなかったわたしは中間テストでは学年1位。

期末テストでは苦手な数学でミスをして、2位になってしまっていました。

通知表は、体育が3。
(正直2でもいいくらいだと思いますが、
受講態度だけは真面目なのできっとお情けの3にしてくださっていたんだと思います)


順位が落ちてしまったな‥‥
と思いました。

でも、もうミスしても殴る人はいません。

オール5が取れなくても、
自分の中学時代の通知表を引っ張り出してきて、それと比べてなじってくる父親はいないのです。


その後の部活ではみんなから無言の優しさや気遣いを感じましたが、
身体を動かしている時には他のことを何も考えられなくなるので気が楽でした。



帰宅すると母に「成績表と通知表は?」と真っ先に聞かれました。

手渡すと一瞥して、

「数学、何を間違えたの?」

と言われました。

「えぇと‥‥」

数学は、期末テストの最終日の科目でした。

それは父親が亡くなった日で、
わたしはテスト後の見直しを全然していなかったので、答えに詰まりました。

そんな様子に母親は大きなため息をつきながら、嫌なものを見るようにチラとわたしを見て、

「あんたは本当に詰めが甘いのよ。これをおじいちゃんとおばあちゃんに見せるまでに、
何がダメだったのか反省しときなさいよ!」

と吐き捨てるように言いました。


「わかった」

と2階に上がるわたしの耳に、

「こんな忙しい時にこんな小言言わせて、本当に腹の立つ子‥‥」

と呟くのが聞こえました。




この時のように『虚しい』という気持ちを、
わたしはこの実家で、これから嫌というほど味わうことになります。




続きます。