関東の雄北条氏政
父北条氏康の跡を継ぎ、
氏政自身も領地拡大に励み、
過去最大の二百四十万石にまで広げます。
ここまで北条家を大きくした氏政でしたが、
たった一つの大きなミスで御家を潰してしまいます。
それが当時の天下人豊臣秀吉がおこなった、
小田原征伐でした。
当時氏政は隠居して、家督を息子の北条氏直に譲っていましたが、
実質的な実権は氏政にあり、秀吉との対戦も氏政が決めています。
この秀吉との対戦で行われたのが、有名な小田原評定です。
小田原評定とは、秀吉方が小田原城を包囲した際行われた会議で、
戦うか否かなかなか決まらず、長々と続いたことから、
長引いてなかなか決定しない会議の事を言います。
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というのが定説ですが、実はこの評定、
実際は秀吉軍が攻めて来る前に行われており、
内容も戦を行うか否かではなく、
城を出て野戦にするか、城にこもり篭城戦にするかという内容で、
戦う事は既に決定していたのです。
どちらにするかはなかなか決まらなかったものの、
最終的には篭城戦をとることを決めています。
これには、
・小田原城が過去に武田信玄や上杉謙信の軍勢を跳ねのけたこと
・小田原城を固めていれば、
伊達政宗や徳川家康が味方に付くという予想
という理由であったとされています。
しかし、篭城戦も虚しく、
北条家はこの戦いを最後に滅亡の道へと進んでいき、
氏政は切腹を言い渡されたのでした。
父の跡を継ぎ、北条家の繁栄に注力した氏政でしたが、
たった一度時勢を読み違えたため、
現代での氏政の評価は低く、
また、そのきっかけとなった小田原征伐で行われた評定が、
なかなか決まらなかったため、優柔不断なようにもとられてしまい、
なんとも最後は不運であったように思われますね。
●今日の戦国出来事●
豊臣秀吉が北条攻めに小田原へ出陣した日。
●気まぐれつぶや記●
お気づきの方もいるかもしれませんが(いや、いないか(笑))、
ブログのテーマを少しずつ変えています。
今回なら武将名ではなく、北条家みたいな・・・
テーマの設定数を調べると最大100までしかないようですね。
100なんて武将の数はあっという間だな~と思ってしまい、
○○家にすればいけるだろうと思ってのことです。
だけどこれだと個人名がわからないので、
わかりやすくするよう何か考えていこうと思ってます。
乞うご期待!(自分でハードル上げてしまった。(;°皿°))
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