■#079 北条氏政 小田原評定■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

みの吉の学校で教わらない戦国時代

群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

関東の雄北条氏政
北条氏政

















北条氏康の跡を継ぎ、

氏政自身も領地拡大に励み、

過去最大の二百四十万石にまで広げます。



ここまで北条家を大きくした氏政でしたが、

たった一つの大きなミスで御家を潰してしまいます。

それが当時の天下人豊臣秀吉がおこなった、

小田原征伐でした。



当時氏政は隠居して、家督を息子の北条氏直に譲っていましたが、

実質的な実権は氏政にあり、秀吉との対戦も氏政が決めています。


この秀吉との対戦で行われたのが、有名な小田原評定です。

小田原評定とは、秀吉方が小田原城を包囲した際行われた会議で、

戦うか否かなかなか決まらず、長々と続いたことから、

長引いてなかなか決定しない会議の事を言います。













というのが定説ですが、実はこの評定、

実際は秀吉軍が攻めて来る前に行われており、

内容も戦を行うか否かではなく、

城を出て野戦にするか、城にこもり篭城戦にするかという内容で、

戦う事は既に決定していたのです。



どちらにするかはなかなか決まらなかったものの、

最終的には篭城戦をとることを決めています。

これには、

・小田原城が過去に武田信玄上杉謙信の軍勢を跳ねのけたこと

・小田原城を固めていれば、

 伊達政宗徳川家康が味方に付くという予想

という理由であったとされています。



しかし、篭城戦も虚しく、

北条家はこの戦いを最後に滅亡の道へと進んでいき、

氏政は切腹を言い渡されたのでした。



父の跡を継ぎ、北条家の繁栄に注力した氏政でしたが、

たった一度時勢を読み違えたため、

現代での氏政の評価は低く、

また、そのきっかけとなった小田原征伐で行われた評定が、

なかなか決まらなかったため、優柔不断なようにもとられてしまい、

なんとも最後は不運であったように思われますね。





●今日の戦国出来事●

豊臣秀吉が北条攻めに小田原へ出陣した日。





●気まぐれつぶや記●

お気づきの方もいるかもしれませんが(いや、いないか(笑))、

ブログのテーマを少しずつ変えています。

今回なら武将名ではなく、北条家みたいな・・・



テーマの設定数を調べると最大100までしかないようですね。

100なんて武将の数はあっという間だな~と思ってしまい、

○○家にすればいけるだろうと思ってのことです。



だけどこれだと個人名がわからないので、

わかりやすくするよう何か考えていこうと思ってます。

乞うご期待!(自分でハードル上げてしまった。(;°皿°))





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