■#067 本多忠勝 家康の過ぎたるもの■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

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群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

徳川四天王本多忠勝
本多忠勝




















徳川家に仕えていた忠勝でしたが、

主君の徳川家康には過ぎたるものが二つあると言われています。


「家康に過ぎたるものの二つ有り、

唐の頭に本多平八」



唐の頭(からのかしら)とは、

船舶のヤクなどの尾の毛を束ねて飾った兜のこと。

本多平八とは、

家臣本多平八郎忠勝のことです。



忠勝は十三歳で初陣。

以降、五十七回戦場に出るも、

一度も傷を負わなかったと言われています。



この忠勝の知略・度胸・武力が遺憾なく発揮されたのが、

本能寺の変が起こった時です。



本能寺の変で織田信長明智光秀に討たれた頃、

主家康と忠勝他わずかな家臣達は大坂にいました。

つまり、敵中にわずかな兵しかいないまま、

取り残されたも同然です。



忠勝達が無事に逃げるには、

大坂から伊賀を越え、三河へ帰るしかありませんでした。



「道中に罠があるのでは?」と心配し二の足を踏む家康。

そんな家康に一喝したのが忠勝でした。


「行けば死ぬ。行かずとも死ぬ!

なら座して死を待つより、飛び出して死ね。」



この忠勝の言葉に決意した家康は、

忠勝を先頭に伊賀越を行い、

家康最大の危機を無事乗り越える事ができたのでした。



無事三河へたどり着いた家康は、

「万死の危機を逃れたのは、忠勝の力である」

と褒めたたえたのでした。



家康が天下人になり、江戸幕府を開くことができたのも、

この時の忠勝の一喝があったからこそですね。






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