■#056 佐々成政 信長へ諫言■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

みの吉の学校で教わらない戦国時代

群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

織田信長の母衣衆筆頭佐々成政
佐々成政
















若き日より織田家へ仕え、

織田信長の数々の戦いに参戦した成政。



そんな織田家は破竹の勢いで天下を目指し、

家臣でさえも信長に意見するのはなかなか難しくなっていました。




天正元年(1573年)に浅井・朝倉両家を滅ぼした信長は、

その翌年正月に岐阜城で酒宴を催しました。

酒宴も進み、直臣だけを残した信長が酒の肴に用意したのが、

朝倉義景・浅井久政・浅井長政、

3人のドクロを金粉で塗った薄濃(はくだみ)でした。



これには強者揃いである織田家の家臣たちでさえも、

酔いが覚めてしまったことと思われます。



しかし、信長の性格をわかっていた家臣たち。

これについて信長に意見すれば、

その場で手打ちになるとも限らないため、

誰も意見するものはいませんでした。



しかし、酒宴が終わって皆が退席した後、

信長の前に出たのが成政でした。



成政は、酒の肴に薄濃の首を使うような、

人道に外れるような行いは慎むべきだと述べた上で、


「信長公に属さない国々があるのは、

 徳が至らないからと思いと召されて、

 良くないところは反省なさいませ。」




と述べたのでした。



これを聞いた信長は怒るどころか、

この後、成政と政道について語りあったのです。



自分の命が危うくなるかもしれないのを承知の上で、

主信長に諫言する成政の忠臣ぶり。

現代にもこれだけ上司を思い、

意見する部下はいるでしょうかね。










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