前回のブログでは、F1のボードゲームを紹介しました。
この流れに伴って、今回は、F1黄金期の1989~1990年を題材にしたいと思います。

1.1989~1990年に活躍したレーサー
1-1.人気レーサー
1-2.日本人レーサー
2.1989~1990年のレースの見所
2-1.プロントとセナの闘い
2-2.日本人レーサーの活躍
3.終わりに

1.1989~1990年に活躍したレーサー
1-1.人気レーサー
①アイルトン・セナ

人気、実力ともに兼ね備えた、天才ドライバー、アイルトンセナ。
1989~1990年は、マクラーレンに所属していました。レースは、攻めに攻めます。

そのため、危険を伴うこともしばしば。ドライビングテクニックは、超一流です。

少し、余談になりますが、F1は、相手を追い抜く時がものすごく危険でもあり、見所でもあります。
F1マシンコマを使って一例を紹介します。

レーサーが相手を追い越す時、まず相手の横に並びます。
こちらがイメージです。

 

後ろにいたマシンが

横に並びます。

次に、相手の減速のタイミングで、一気に前に出ます。

この動作を時速200~300kmでやっている考えると、どれだけ刺激的な事をしているかわかると思います。


②アラン・プロント
精密な走りをするドライバー、1989年は、マクラーレン。1990年は、フェラーリに移籍します。
1989~1990年は、セナとプロントなしでは語れません。次の章で詳しく話します。


③ナイジェル・マンセル
荒っぽい走りをするドライバー。
1989年~1990年は、フェラーリに所属。気分屋で、トラブルメーカー。セナとプロントの確執の原因をいくつか作っています。
例えば、レース中、失格になったにも関わらず、優勝争いをしていたセナと接触し、リタイアさせたり。

チームメートであるプロントをスタート時にブロックしたりといろんなトラブルを起こします。

そんなマンセルですが、ファンサービスが良く、庶民派、みんなから愛されていました。


1-2.日本人レーサー
①中嶋悟

日本人初のF1ドライバー。納豆のように粘りの走りをします。
1989年はロータス。1990年はティレルに所属。
雨の中の4位入賞は、伝説となっています。


②鈴木亜久里
日本人初の3位入賞を果たしたドライバー。1989年はザクスピード、1990年はラルースに所属。日本人と思えないような濃く甘いマスクで、人気を博しました。

※鈴木亜久里が入賞した年のミニカー、ラルース・ランボルギーニのマシンは、プレミア品で、結構高かったです。



2.1989~1990年のレースの見所
2-1.プロントとセナの闘い
①1989年のレース

セナとプロントは、マクラーレンに所属していました。F1では、1チーム、2名で出場します。

この2名、どちらとも速く、レベルが拮抗していました。年間レースは、セナとプロントが、激しい優勝争いをしていました。
プロントが年間総合、1位。セナが2位で迎えた大事な終盤のレース。

鈴鹿サーキットで、事故が起きます。セナとプロントは、このレースでも激しいバトルを繰り広げました。

そして、レース中、二人のマシンは接触。二人のともコースで止まってしまいました。


その後プロントは、レースを諦め、リタイヤ。セナは、年間王者の望みを

つなぐために、レースに復帰。そして、このレースをなんと1位でfinishしたのです。

しかし、喜びもつかの間、セナは、プロントとぶつかった後、レース戻った時、

コースをショートカットしたみなされ、失格になりました。この判定を不服とし、

チームとセナは、運営を訴えましたが、判定が覆ることはありませんでした。

年間王者は、プロントに決定したのです。

マシン同士の接触による失格。なんとも後味の悪い形になりました。

②1990年のレース
マクラーレンで、セナとの関係に危機的状況に陥っていたプロントは、名門フェラーリに入りました。

この当時、フェラーリとマクラーレンのマシンの性能は拮抗していました。

この年も前年と同じく、セナとプロントの激しい優勝争いが繰り広げられました。

マクラーレンが1位、2位を独占していた前年に比べ、この年は、マクラーレンとフェラーリのチームとしての闘いも見られたので、

F1ファンには、たまらない1年間になったと思います。この年も去年と似たような状況が発生します。

セナが年間総合、1位。プロントが2位で迎えた終盤。
1989年に事故が起こった鈴鹿サーキットで、再び年間王者が決まることになったのです。

世界中が注目したレースは、あっけない幕切れで終わりました。
レース開始直後に、プロントとセナが接触。二人のマシンは、コース外に弾かれました。

 

その時の状況を再現します。

ポールポジションは、セナが獲得。二番手はプロストです。

レースがスタートしました。

プロストが、スタートダッシュに成功、第1コーナーで、先頭になります。

プロストが右に曲がろうとした時、セナは、コーナーのインをついて

抜こうとしました。

二人のマシンは、接触し、コース外に

 

この瞬間、セナの年間王者が決定しました。この事件は偶然かそれとも故意で起きたのか。

今となっては、真相は闇の中です。

2-2.日本人レーサーの活躍
①中嶋悟の伝説のレース

中嶋悟の忘れられないレースといえば、1989年のオーストラリアGPになります。

この日のレースの天候は、どしゃ降りの雨で、参加するレーサーが開催に反対するほど、

激しい雨でした。

そんな中、レースは無理やり決行されました。悪天候の中、クラッシュなどで、リタイア者が続出しました。

そんな中、中嶋は、軽快な走りを見せ、このレースのファーストストラップを叩き出します。

表彰台には届きませんでしたが、みごと4位入賞を果たしました。

当時、中嶋の乗っていたマシンは、他の上位のマシンがより、劣っていましたので、

この入賞はかなり驚異的でした。日本人レーサーを評価を上げるうれしいレースでした。


②鈴木亜久里の伝説のレース
次に忘れられないはならない日本のF1レースは、鈴木亜久里です。
鈴木亜久里の伝説のレースは、1990年の日本GPです。

先程、紹介したとおり、1990年の日本GPは、プロントとセナが年間王者を決める大事なレースでした。
しかし、レース開始早々、プロントとセナは、接触し、リタイヤします。
また、この年の上位に食い込んでいたマクラーレンのベルガー、フェラーリのマンセルもレース中、コースアウトやマシンのトラブルなどで、姿を消します。

2強チームのドライバーがすべて脱落する大荒れのレースになりました。そんな中、鈴木亜久里は、馴染みのある鈴鹿サーキットを疾走。

他のドライバーとの死闘を繰り返し、みごと入賞を果たしました。
日本人、初の3位入賞。開催国である日本は大いに盛り上がりました。



3.終わりに
1998~1990年のF1、いかがだったでしょうか。やはり、スーパースター、セナと勝利を阻むプロントの戦いが魅了的ですね。

日本人の活躍も胸が熱くなります。

この時のF1は、レース以外の視点で見るとまた面白い発見があります。
まず、F1マシンの日本企業の広告の多さです。HITACHI、TOSHIBA、CANON、SANYOと、

そうそうたる企業が目白押しです。

次にエンジンです。

1989~1990年に優勝争いを繰り広げたマクラーレンのエンジンは、ホンダです。

ホンダがF1レースを牽引したと言っても過言ではありません。
この時代は、日本のバブル絶頂期、日本の勢いを感じることができます。
今、F1を視聴するには、専門チャンネル等の登録が必要です。
1990年代のように、また、地上波でテレビ中継され、日本全土が盛り上がる日が

来るといいな~。

おまけ
1991~1993年に語りたいことがあるので、少しだけ書きます。

①新星 ミハエルシューマッハ
1991年に突如して現れたドライバー、それは、ミハエルシューマッハです。

デビューの翌年の1992年は、3位入賞、そして、ベルギーGPでは、初優勝します!

こちらが1991年にデビューしてまもない時に乗っていたベネトンのマシンです。 

 

②好調ウィリアムズ

1991以降、ウィリアムズが優秀マシン、優秀なレースドライバーに恵まれ、強いチームになっていきます。

 

持っているマシンを出したいために、少し書きました。

F1マシンはかっこいい。

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