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スウェデンボルグ⑤ 身魂磨き~天国への修行~

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スウェデンボルグは宗教的な霊界観・地獄の捉え方を否定している。
※ちなみにこの地獄とは、ひふみ神示でいう幽界を指している。

「生命と調和の源である『天の理』が何故地獄のような存在を許しているのか』
 その答えは、闇がなければ我々は光の存在に気づけないからだ。つまり一方に暗い闇があるからこそ他方に明るい存在がわかるのであって、闇と光は一組のものなのだ。
 地獄の霊は人間だった時の悪業に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。
 地獄の霊は地獄が自分に合っているいるがゆえに自分で自由に地獄を選んでそこに行くということである。

つまり仏教やキリスト教が説く「悪行によって地獄に落とされる」ことを否定している。

ひふみ神示からも死後について触れているものがあります。
人間の死後、自分の命の最も相応(ふさわ)しい状態におかれるのであるぞ。
悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。
皆々、極楽行きぢや。極楽にもピンからキリまであるぞ。
神の旨(むね)に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢや。
心の世界を整理せよ。
そこは無限のものが、無限にあるのであるぞ。
神の理(みち)が判れば、判つただけ自分がわかる。

        _『ひふみ神示』


天国と地獄(幽界)をわかりやすい言い方で言えば、次の様になる。
●天国は生命と調和の国なので、そこで霊たちひとりの幸福は万人の幸福、万人の幸福はひとりの幸福という形を享受している。つまり連帯の世界だ。

●これに反し地獄はひとりひとりの利己的欲望の世界なので、調和はありえず連帯とは逆の分裂の世界になっている。


 この二つを比べれば、善なる心を持った素直な人なら、誰でも前の世界が幸福だと想うに違いない。
しかし、これに反し地獄の霊はそうとは思わない。
 彼らは、たとえば他の霊あるいは人間を支配して自己の利己的欲望(支配欲)を果たした場合の方が幸福だと感ずるものなのだ。
 彼ら(地獄的想念の霊)は本質的にそのような性質の存在である。
だからこそ彼らは自ら選んで地獄に行くのだが、このように地獄を選択する自由は彼らにも許されている。

 善霊や人間に自由を許すのはともかく、悪霊にまでそれを許しているのは理解に苦しむという人がいそうだが、これも実は『天の理』の真相なのだ。
 悪霊であっても『天の理』によって初めて生命を受けている。ただ彼らはの善や美や真理を自分で悪・醜・虚偽といったものにねじ曲げて悪霊になっている。
そして自由なきところに生命はない。
 だから悪霊であっても『天の理』から生命を受けている以上は、この自由は許されているわけだ。
『天の理』は、つまり神と言ってもいい。だから神なる者はそのまま『天の理』といい直してもいい。

 善霊は蝶で悪霊は蜘蛛(くも)と例えるとわかりやすい。
善霊は『天の理』の支配を素直に受け入れているが故にのびやかな世界を軽やかに飛び回っている蝶に例えられる。
しかし、悪霊は自己の欲望を中心とした巣をはりめぐらしている蜘蛛にたとえられる。
そして、悪霊は『天の理』(神)の美を醜に、真理を虚偽に、善を悪にすべてをねじ曲げている存在なのだ。

 地獄や悪霊が存在し、自由さえ許されている事の裏側には人間には測り難いほどの『天の理』の智恵が働いている。
 そのことを理解すると霊界の事も、霊界とこの世を含めた大きな世界のことも、さらに人間の事も一層深く理解できるようになる。

 悪霊は自由を許されているが故に霊の世界では善霊を苦しめ、人間の世界では人間に不幸を与えるという暴威を振るう。しかし、その悪霊の暴威もまったく無制限なものではない。
それは最終的には『天の理』や善霊の力よりずっと力が弱い。
もし、このような力関係が逆であれば、霊界もこの世も悪霊によって滅ぼされてしまう。
幸いなことにそうはなっていない。
 例えば、悪霊が善霊に対して悪事を働く為には、善霊の団体に潜り込む必要がある。
しかし、悪霊はモグラのように光の強い善霊の団体に長くとどまる事は出来ない。
長くとどまれば悪霊には苦しみばかりが生じるので、そこから逃げ出さざるを得ないからである。
しかし、悪霊が許された範囲内で悪事をなすことは善霊のための教材として役立っている面もある。
 天国は有用であって、生命と調和の観点からそれに役立つことを霊たちはそれぞれの任務として遂行しなければならない。
 このような有用な役割を天国で果たせない者は天国には受け入れられない。
そして、そういう役割を果たすようになるためには、根本的に生命と調和の原理がどんなものであり、何が善で、何が悪かを判断し、その判断によって行動出来る者にならなければならない。
 そのためには彼には修行が必要なのだが、その修行のために悪霊も実物の教材として役に立っている。
 何故なら、悪霊の悪があって初めて善霊も善と悪がよく理解できるからである。

 天国に行けば必ず幸せな生活が送れる期待している人も意外に世間には多い。
このような人は徒手空拳(としゅくうけん)で額に汗せずとも、神は人間を天国に招いてくれるのだろうといった身勝手な思い込みをしている人である。
 こういう人に私はこう言ってきた。
「もし神なる者があって、彼が人間を堕落させたいと想っているなら、彼は人間が欲しい物は何でも与えたに違いない」

 『天の理』=神は人間に対して、哺乳瓶(ほにゅうびん)からミルクを飲ませてもらうような怠惰(たいだ)な幸福を与えてはいない。
つまり、修行を霊たちにかならず課しているわけだ。
そして悪霊はそのためのひとつの教材なのである。

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善霊、悪霊 どちらに影響されるかは自分次第
人間は天国の胚種である。
 霊に天国への修行が課せられているのと同じく、人間にも人間だった時から同じ修行が実は課せられている。世間の人々はそれに気づかないだけである。
では、どのような修行が課せられているのか_。
 実はこの修行も霊に課せられているものとまったく同じものだ。
 悪霊の暴威も自由は許されているが、『天の理』=神や善霊によって制限されていると言った。
 これは霊界だけのことと想ったかもしれないが、実はそのような関係は人間の世界にもそのまま共通している。

 人間は善悪二つの種類の例にとり囲まれている。
 悪霊は常に人間にマイナスの影響を与えようとし、善霊は悪霊から人間を守ろうといしている。
「では、善霊の力の方が強いのなら、なぜ悪霊の祟りで人間が不幸にされるなどということがあるのか_?」
 これは最もな疑問といってよい。
しかし、実はその背後には人間自身というもう一人の役者が絡んでくるのでこのようになるのだと知る必要がある。
 善悪二種類のどちらの霊の力が強まるかは実は人間次第だということだ。
 そこには天国の胚種だる人間が自分の自由によって、天国への修行を課せられている姿が見えてくる。

 ひと言だけ言っておくと、
 霊には自分がとり憑く人間の中に見出す自分と似たものによって興奮させられるという根本的な性質があるのだ。
 つまり、人間が悪い事を考えたりしたりする時には悪霊はそこに自分と似たものを見出して興奮し、その影響力を強め、人間により大きな影響力を凝視するようになる。
 一度悪に染まった人間が、一層悪の道へと転落し、その程度が益々増幅されていくという悪循環が起きる理由もこれで理解できる。
反対に、善の方向に人間が向いた場合も同様である。
善霊や悪霊の影響力を強くするも弱くするも、人間次第であり、どちらの勢力を強めるかは、人間が自分の自由をどちらに凝視するか次第だということだ。
 つまり人間は、自分の自由を行使することによって、善霊と悪霊の両方の勢力の影響下にありながら修業をしていることになる。
それは自由なくして本当の修行はあり得ないからである。


死後、人間はその心のままの世界に行きつくようです。

悪人は悪霊の、善人は善霊のそれ相応の世界に辿りつき、相応の集団へ入って行く。

我良しは我良しの、心の醜悪な者は醜悪な霊たちが集う世界へ。
似た者同士が集まる世界へ行くのだから、本人にとっても極楽であると。

人を騙し、喰い物にし、欺き、苦しめ、自分の欲望を叶えて来た者は、同じような計算高い、謀略貼りめぐらす連中の中へと落とされる。
待っているのは共食いでしかない。

ただ、改心し霊格を上げて行けば自ずと上へ上がって行くようです。

天国に行きたいのなら、現生にいるうちに天国へ行くべき修行を積んでおかなければならない。
そして、天国へ行くべき霊格を身に付けなければならない。
肉体人は肉体人としての御用があるため肉体を与えられている。
本だけ読みふけり、口先で神を語り、祭壇で祈るだけでは足りない。
実行せねばならない。
物質界に生きている以上、肉体を働かせ、実行に移さなければならない。

天国は有用の世界らしい。
世の為人の為、霊の為、神の為...と、自分以外の者の為に働く者しか居られない。

霊格が高ければ高い程任務は多く忙(せわ)しく御用に努めているようだ。

実はこの部分は『小桜姫物語』でも出てくる。
高度な大神ともなれば滅多に休むことがなく、忙しく働いている様子が語られている。

神は『働き』とひふみ神示にあるので、神の働きは多岐に渡りいくらでもあるということであろう。

天国には、怠け者が住む場所は一寸もないようです。
如何に楽して金を稼ぐか、如何に他人を使い自分は楽をするか、他人の物を、他人の金を、他国の資源を如何に狡猾に奪うか、などに頭を使っている者は、とても天国などに行けるわけがない。
そのようなズル賢い人間は、その時点で霊格の低い幽界に行きつくであろう。
でも、本人にとっては身分相応なのだから居心地はいいのかも知れない。


我々は、死後どのような霊界に辿りつくのだろうか_。
我良しか、戦争か、偽善者の集いか、それとも平安な世界か、心安らげる世界か。

それは人間として生きている今、一日一日の生き方にかかっている。


●天国は生命と調和の国なので、そこで霊たちひとりの幸福は万人の幸福、万人の幸福はひとりの幸福という形を享受している。つまり連帯の世界だ。

●これに反し地獄はひとりひとりの利己的欲望の世界なので、調和はありえず連帯とは逆の分裂の世界になっている。

日本人は和(調和・ハーモニー)を重んじ、一人では大人しく弱いが、力を合わせると世界一強い民族になる。

これに反して、外国人はどこまで行っても個人主義、利己主義であり、強く自己主張して行かなければならない。
一人一人の力は強いが、纏(まと)まることに重点を置かない。

もちろん、国によるが。
この心根の部分、魂の性来を見ると、神界(天国)の影響か、幽界(地獄)の影響を受けているがが判る。

しかし、今は日本にも個人主義、利己主義、悪思想が蔓延し、多くの日本人が心の宝を穢しているとクニトコタチノミコトは指摘している。
日本人が九分九厘まで悪の身魂となっているぞ、という言葉は、現代の日本人の心の霊線が地獄的想念の悪霊に繋がり、悪神の影響下のいるという警告になります。
もちろん私も。
だから、これからは心を神に向け、良い事を実行して行こうと心に決めました。
今迄は、ブログで語ってはいても行動までには至らなかった...
実際、一日一善と決意しても、では何をしたらいいのか_?と判らない。
良かれと思っても、他人に迷惑ではいけない。
人の接し方、心の在り方、う~ん...
   (みなさんは、何か事項していることはありますか?)

 今、長年日本人に仕掛けられた見えない甘い思想の罠に気づく事によって、本来の姿に戻る努力をしましょう。

我々は何をしにここに居るのか_。
何をするために生まれて来たのか_。
何故この時代にこのタイミングに生まれて来たのか_。